慶應義塾と通信教育を守る会

                     

対談 坂入   洸 (38経)

山岡 恒夫 (48法)

 


 

>>>大学紛争の背景は何だったのか<<<

 

山岡 坂入さんは、1963年卒業の通信三田会再興7人衆とか8人衆とか言われて、その後の10数年余り引き続いて活躍された方は、もうお一人だけになってしまったわけで、再興時のご苦労話を伺いたいのですが。

今回の会史編纂では大学紛争時代がご担当だということで、そのへんのお話をお聞かせください。私も入学したばかりの頃でしたから鮮明な記憶が残っています。振り返って、社会的な背景はどのようなものでしたか?

坂入 山岡君は何年の入学ですか? 

山岡 1969年、昭和44年の入学です。入学式は妨害に遭って中断されました。夏期スクーリングは日吉がいわゆる過激派学生に占拠されていたため使えず、三田で開講されたんですが、8月半ば混乱のうちに中止となってしまいました。

坂入 そうですか。大学生活は混乱のなかで始まったわけですね。あの紛争を一言で言うことはとても難しいです。ほかの方も話してくださると思いますが、一般的には戦後の復興発展のひずみが顕著に現れたと解釈されていますね。

山岡 どういうことですか?

坂入 第2次大戦で大敗をして日本は零から出発しました。ですが、その後の高度成長政策などによって、経済は世界に追いつき追い越すところまで発展しました。もはや戦後ではないという、産業発展の象徴としての1964年の東京オリンピックや、1970年の大阪万国博覧会が開かれました。しかし、その陰には人口流出による農山村の疲弊、石油エネルギーへの転換による石炭業界の事故や労働争議、都市の過密化、そして公害の発生などがありました。それで新しい時代の変化に対応が遅れた分野、特に学生の身近な大学改革に、学生の鬱積が向けられたことだと思います。まず、慶大の学費値上げ反対運動と東大の医学部に火がついて、あっという間に全国の大学に広まっていったのです。

山岡 通信教育に及んできたのが1968年ごろと聞いています。「通斗共」などという組織ができて、入学式や科目試験の会場などで、しきりにアジ演説や運動をしていました。各都道府県のクラスをまとめて通教生の自治会を結成し、塾に対しいろいろと学習環境の改善を要求する。これは一見筋がとおっていますが。

坂入 その方法が穏やかならざるもがあったです。自治会費の代理徴収などを要求していたと聞いていますが、通教生は社会人でもあるし、難しいところですね。そのへんはあなたの方が詳しいでしょう。私が聞きたいところです。その年の5月には大学通信教育創設20周年を祝うなど、まだおだやかな雰囲気は残っていたと思います。

 

>>> 通教紛争の経過 <<<

 

山岡 1969年夏期スクーリングが混乱して中止になってからが大変でしたね。

坂入 春ごろから騒がしいねえと言っていたのですが、新聞を見てまさかと思いました。それから急遽通信三田会の常任幹事会が招集されたのですが、とにかく、ありとあらゆる情報を集めてこいと松田信俊会長から言われまして、幹事はみな走りまわりました。幹事会では卒業生として何ができるかを考えて、解決に動こうという意見と、卒業生は関わるべきでないと、いう二つの意見に分かれました。

山岡 結局、会の総力を結集して解決に当たろうということになったのですね。

坂入 まず、事態の客観的把握、それを分析解説した文書を作り、全通信塾生に配布する。「慶應義塾大学と通信教育を守る会」を結成し、一般会計とは別にして基金を募集する。塾当局と連絡を密にしてできることは協力する。申し入れも行う。連合三田会への説明と協力依頼、通斗共と話し合う。こんなことが決められたと記憶しています。

山岡 パンフレットはどなたが書いたのですか?

坂入 有居(34経)さんを中心に編集しました。学習環境の改善を求める通教生の運動と大学解体を叫ぶ活動とは本来矛盾していることであるから、通教生はこの事態をよく認識し自重して行動して欲しいと願って、10月に通教生全員に郵送しました。

山岡 素早い対応でしたね。発送など大変でしたでしょう。反応はどうでしたか?

坂入 資料中心の客観的分析による解説でしたから、すこし訴える力が弱いという意見もありました。でも評判はよかったですよ。アンケート用紙を入れたので学生からかなりの意見と礼状がきました。

山岡 大方の通教生は三田での情報が入らず、また毎日三田へ行っていてもわからないことが多かったですからね。

坂入 あのパンフは一部の塾員にも送りましたし、マスコミにも資料として送ったと思います。 手紙で思い出しましたが、中止のニュースが新聞に出たときは全国の通信塾員からたくさん手紙がきました。激励、お叱り、提案、いろいろでした。松田会長は「私は忙しいから返事を出しておいてくれ」と言って、こちらへ転送して来るんです。

山岡 いちいち返事書いたのですか?

坂入 書きましたよ。あの時代電話と和文タイプは使っていたが、コピー機はまだ普及していなかったしね。

山岡 ファックスもまだなかったしね。みんな手書きだったんですね。

坂入 パンフレットの発送をはじめ、ほかの仕事も最初のころはみんな協力してくれましたが、 だんだん忙しくなると、去っていく人が増えていきました。守る会に寄金してくれる会員もそこまではといったところで、免罪符になってしまったなと会長が苦笑いしたのを覚えています。

山岡 法学部教授会から「通信教育課程の廃止」問題が提案されたと聞きましたが、噂が流れてむしろこの方が不安でしたよ。

坂入 紛争以前からあった話ですね。夏期スクーリング中止というニュースによって、そんなに厄介で卒業生も少ないなら廃止してもよかろうなどという意見までが出てきたんですね。こちらの方が大変だと会長は意識して通信教育存続を各方面に働きかけていきました。連合三田会のなかでも慶應義塾にこのような制度があることすら知らない人がいて、モールス信号を覚えるのは大変だろうね。ぼくも海軍で苦労したよと言われて、逆に私が驚きました。ですから、会長は協力要請の前に通信教育の説明から始めなければならないとぼやいていました。廃止されなくてよかった。さすが慶應義塾だったと思います。

山岡 坂入さんも会合などに出られたんですか?

坂入 会長はサラリーマンだったから昼間、人と会う仕事は小早川(40文)さんと分担していました。塾の理事や経済界の要人などといろいろな折衝をしました。会長代理が30歳前の若造だから軽かったね(笑)。

 

  >>> 通信教育のPRから始める <<<

 

山岡 もう一つ、通信三田会レポートというのが1970年春に送られてきましたが、あれはよかったですね。

坂入 連合三田会で三田ジャーナルという新聞を発行しているんですが、松田会長が1969年9月号の2ページ分を貰ってきたんです。通信教育に対する理解が少ないのを嘆いていたら、それなら紹介の記事を書いたらと、編集者がページを割いてくれたらしいんです。その書き手が私にまわってきた。

山岡 書いたんですか?

坂入 締め切りが2日後に迫っているので、実質1日しかない。「慶應通信」のバックナンバーから塾員の卒業までの軌跡の記事を数人分紹介し、結論として戦後慶應義塾が他大学に先駆けて通信教育を始めたことはいかにすばらしいことであったか。ここで廃止するようなことがあってはいけない。むしろ情報化社会における未来志向の大学教育のあり方として、最先端を行くであろうという通信三田会の主張でまとめたんです。はさみとノリのやっつけ仕事としてはよくできたと妙なほめられかたをしました(笑)。

山岡 大学のあり方について、50周年記念講演の加藤寛(名誉教授)先生の講演も同じようなことを言われていましたね。

坂入 連合三田会も通信教育に対する認識が大分改まったと会長から聞きました。その部分の記事を1ページに再編集して、翌年のスクーリング前に通信教育生全員に郵送しました。そのほかに、地域通信三田会の代表には随時ニュースを流していました。 

 

>>> 翌年の日吉の夏 <<<

 

山岡 1970年(昭和45年)ようやく日吉の夏が始まったわけです。さすがに塾も十分対策をたてていて、喧噪のなかにも順調に講義が進んだのはうれしかったです。大学解体を叫ぶ過激な主張は少なくなりましたが、教育環境の改善を大学当局と団体交渉する自治会を作り、その主導権を握ろうとしての活動はまだありました。それもクラスが一体としての活動やクラス代表と言いながら浮いているところや、まったく関心のないクラスなどいろいろで、日吉のひと夏で事をまとめるというのはしょせん無理なことだったのでしょうね。

坂入 三田会の方はまた中止という事態になったら廃止は間違いないと、会長以下考えていましたから、何か打開策はないか、気分転換に国立スタジアムで運動会をやろうなどと会長が言い出してね。それは無理だから、ソフトボール大会でどうだということになった。早速小早川さんが塾長に直訴して綱町グラウンドの使用許可をもらってきた。

山岡 よく許可されましたね。

坂入 それから賞品を集めたんだが、こういう事になると慶應はまとまるんだよね。

山岡 何よりすごかったのがセイコージレットかみそり、優勝チームには全員に1台づつ。燃えましたねえ。

坂入 これも小早川さんが服部礼次郎さんから20台ほど頂いてね。数年続いたが大変ありがたかった。

山岡 あの日吉での抽選会は面白かった(笑)。

坂入 冗談じゃない。これは私の担当だったんですが、日吉にポスターを貼っていたら、卒業生がこんなことをするのは自治権の侵害だと猛烈な抗議がきた。その3日後だったかね、抽選会は。これは団体交渉になるなと思って腹を据えて日吉へ行ったんだが……。

山岡 坂入さんは1人で来ましたね。いい度胸でしたよ(笑)。

坂入 違うんだよ。あとから聞いたらみんな怖がって来なかったんだ。君たちは笑っていたじゃないか。見たところ山岡君の茨城や広島、秋田慶友会など通信三田会を理解してくれているクラスが半数ほどいたから穏やかに話をして。

山岡 いや、大分きついことを言っていたじゃないですか(笑)。

坂入 まあ、とにかく話をうまくまとめて三田会協力クラスへ抽選をまかせることができた。

山岡 ターニングポイントということがあったとしたら、あの時ですね。翌日から自治会の主導権争いなどそっちのけで、みんなチーム作りに走った(笑)。セイコーのかみそりは当時は高価なものでしたから、その魅力もさることながら、みんなあの喧噪には辟易していたわけです。いい企画でしたよ。いまでも楽しい思い出として語る卒業生はたくさんいますよ。

坂入 1チームに女性2人を含むことと決めたんだが、あれは面白かったね。ほらインターハイに出たという女性がいて引っ張りだこだったじゃない。

山岡 三田会の幹事の方々も交代でグランドに来ていましたね。

坂入 喧嘩騒ぎが起きるといけないから詰めてくれと、事務局から要請があったんだ。 何年目のときだったか君も西瓜をたくさんもってきてくれてねえ、塾監局や事務局に配って喜ばれたね。

山岡 卒業して、幹事になってからでした。あのような類の行事がずいぶんありましたね。

坂入 まず卒業生が少ないということの弱さを会長以下痛感してたから、卒業生を増やすことが第一と考えたわけね。それで新卒の会員が講師になって卒論相談会を開いた。司法試験、公認会計士、税理士試験の相談会、山中湖や鎌倉へのバスハイクなどを実行しました。いろいろ企画を立てても暑い夏の最中でしょう。人集めに苦労したんだ。昭和40年代の新塾員がたくさん手伝ってくれて本当に助かった。いちいち名前はあげられないが、みんな貴重な時間を割いて活動してくれました。感謝しています。

山岡 鎌倉の覚園寺で叱られたとか。

坂入 ああ、バスハイクは事前にお寺さんなどはお願いに上がっておくのだが、小早川さんに命じられて大中さんと行ったのよ。そしたら方丈さんから慶應の学生はお断りだとえらい剣幕で怒られた。なんでも通学生が東洋美術の見学の際に失礼があったらしい。塩瀬の菓子を差し出して平謝りして許してもらったんです。あとからお陰さまで、また見学ができるようになりましたって美術の教授からお礼を言われましたよ(笑)。

山岡 大学紛争は沈静化したわけですが、後には何が残ったのでしょうか。通信教育に限って言えば、その後の各部長に就任された先生方は多くの改革をしてくださいました。

坂入 放送大学ができました。それに対峙するかたちで慶應が中心になって私立大学通信教育協会ができ、当時17の大学や短大が加盟して、共通教材づくりや共同説明会を開催するようになりましたね。私は村井実先生の開かれた大学理論をみっちり勉強させられましたし、たくさんの


親しい友人ができました。通信三田会は若手を中心にぐっとまとまり、私もお役ご免になりました。その後、評議員の必要性も感じて、松田奎吾(31法)さんを推すことになりますが、その話は別の人がするでしょう。

山岡 坂入さんをそんなに駆り立てたものは何だったのですか?

坂入 そんな大げさなものはないですよ。たまたま通信三田会再興を企てた松田さん、大久保(38経)さんなどと一緒に卒業したものだから抜き差しならないことになってしまった。 それが1963年、東京オリンピックの前年です。もう40年も前のことになってしまいました。山岡君もその後ずっと活躍くださって、ありがとう。これからもよろしくお願いします。

山岡 さかのぼって通信三田会結成時のこぼれ話など、また聞かせてください。今日はありがとうございました。


 

テキスト ボックス: 慶應義塾塾歌
      富田正文 作詞     
一、 見よ
風に鳴るわが旗を
   新潮寄するあかつきの
   嵐の中にはためきて
   文化の誇りたからかに
   貫き樹てし誇りあり
    樹てんかな この旗を
    強く雄々しく樹てんかな
     あゝわが義塾
     慶應 慶應 慶應

二、	往け
涯なきこの道を
   究めていよゝ遠くとも
   わが手に執れる炬火は
   叡知の光あきらかに
   ゆくて正しく照らすなり
    往かんかな この道を
    遠く遥けく往かんかな
     あゝわが義塾
     慶應 慶應 慶應

三、	起て
日はめぐる丘の上
   春秋ふかめ揺るぎなき
   学びの城を承け嗣ぎて
   執る筆かざすわが額の
   徽章の誉世に布かん
    生きんかな この丘に
    高く新たに生きんかな
     あゝわが義塾
     慶應 慶應 慶應

テキスト ボックス:  塾歌について
           富田正文
 
旧塾歌「天にあふるる文明の〜」という塾歌は明治三十七年三月五日に発表されたもので、作詞者角田勤一郎は浩々歌客と号した塾員で、詩人としてまた新聞記者として著名な人であった。作曲家金須嘉之進はヴァイオリンの名手として知られていたという。
日露戦争直前にできたもので歳月を経るに従って時代に適さなくなり、昭和の初め頃から塾歌を改めようという声が強くなった。塾生の間から歌詞を募集したり、著名な詩人に作詞を頼んだりしたが、容易に決定しなかった。たまたま昭和九年に福澤先生誕生百年記念の祝典歌「日本の誇」を作詞した関係から、わたしに塾歌を作ってみるようにという話があり、辞退したが聴かれないので恐る恐る作って差し出したところ、これに信時さんがすばらしい作曲をしてくれた。歌詞は塾の歴史の誇りと、学問の道の深遠と、塾の徽章の光輝とを、各節に歌い篭めたもので、幸に採用されて昭和十六年一月に新塾歌として発表されたのである。
 


 


 

発刊のことば写真集卒業年次別塾員数通信三田会年表草創期の塾員活動
通信三田会組織結成事情歴代役員一覧表/慶應義塾と通信教育を守る会/ユニコン賞
地域通信三田会代表者会議通信三田会と塾評議員あとがき・奥付50年史トップページへ

戻る