☆☆☆全国通信三田会2010年秋期幹事会記念講演要旨☆☆☆
福沢諭吉の文明論
―特に地方への眼差し―
慶應義塾福沢研究センター  都倉 武之 先生

日 時 2010年10月23日(土)15:00〜16:15
場 所 慶應義塾大学 三田第一校舎101教室

福沢諭吉の文明論
―特に地方への眼差し―
慶應義塾福沢研究センター  都倉 武之 先生

 ただいまご紹介を頂きました都倉と申します。2002年政治学科卒業です。今年5月に沖縄通信三田会創立40周年記念行事でお話しをさせて頂きまして、それをきっかけに今日の機会を頂きました。昨年、福沢諭吉の展覧会が東京、福岡、大阪、横浜で開催されました。その準備で北海道から九州まで飛び回り、そこへ今年は沖縄とのご縁も頂き、今日もまた各地の方々と新しいご縁を頂けますことは、私のかけがえのない財産となっています。いま慶應義塾創立150年記念の一環で『福澤諭吉事典』を編集しています。今日の講演時には、編集が終わっているはずでしたが、だいぶずれ込みまして、連日連夜赤入れ作業に追われているような状況です。今日は、5月の沖縄の講演とはテイストを変えてお話しをしたいと思っていますが、辻褄がうまく合うかどうか、頑張りたいと思います。

 さて、今日の話は「福沢諭吉の文明論」と題しましたが、福沢諭吉は何をした人か、というと一言では説明し難い人です。よく知られているのが『学問のすゝめ』『文明論之概略』など、近代日本史上で重要な本を書いたということ。本のタイトルから考えると、アカデミックな分野で活躍し、「文明」というような西洋の考え方を日本に紹介した人というように考えている人もいるでしょう。あるいは慶應義塾という学校を創立して教育に力を尽くした人、そんな漠然としたイメージを持たれているのではないでしょうか。辞書を引いても、啓蒙思想家とか、教育者という肩書きが書かれています。

文明論之概略

 福沢は何を考え、どういうことをした人で、一体、福沢諭吉のオリジナリティはどこにあったのか。そういうことに少しイメージを持ってもらえればいいなと思います。また、皆さんは全国から集まられているので、福沢が地方にどんなことを期待していたのか、福沢の理想に適った現在になっているのか、そんなことについても考えてみたいと思います。


1.福沢の発想

 福沢諭吉は1835年に大阪で生まれ、1901年に東京で亡くなった人です。時間軸で見ると、1868年を明治維新として、前後で江戸時代を33年、明治時代を33年生きた人です。前半の33年が重なるのはたとえば坂本龍馬です。岩崎弥太郎とは同年でしかも誕生日が1日違い、1月9日生まれが弥太郎、10日生まれが福沢です。見越して死んだわけではないでしょうが、『文明論之概略』に「一身にして二生を経るが如く、一人にして両身あるが如し」というぴったりの一節があります。明治維新前後で世の中は大きく変化し、あたかも2つの生涯を生きたかのようだというわけです。福沢はまさにその通りの生涯を送りました。この生涯で福沢が訴えた思想、これを一言で表すならば「独立」の2文字、これを詳しく言うならば「一身独立して一国独立す」、これが福沢の特徴的な考え方です。

 当時政府の中枢にいる人達は、国をどうするかをまず考え、そこに沿う個人のあり方を考えるという発想の仕方をしたといってよいでしょう。あくまでも発想は国が主であり、個人は従たるものです。ところが福沢は全く逆の言い方をするわけです。福沢は個人、一人一人の「一身」が先にあり、一身が独立すれば、おのずと国が独立すると考えるわけです。一身が独立する、とは一人一人が自分で考え、分別を持って正しく行動できる状態、福沢はそれを「智徳(精神)の進歩」という言い方をします。そして、『文明論之概略』では、文明とは「天下衆人」の「智徳」(精神)が発達していく状態である、という言い方をします。このように、個人を出発点として国のあり方を論じる、この日本に居住し、普通に生活している一般の人々が変わっていくことが、国を変えることであり、それが文明に繋がるという主張なんですね。ここに福沢の文明論、独立論の特徴があります。今日は最終的にこのことを深めていきたいと思います。


2.キーワードとしての「俗」

 別の観点で福沢のオリジナリティを見てみましょう。福沢は思想家であり、『学問のすゝめ』や『文明論之概略』等、著作を通して文字で世の中に自分の考え方を訴える人でありますが、同時に自分で言ったこと、書いたことを、自分でやってみせ、世の中に定着させる、人々に変化を促し変えていくことに深い関心を寄せました。

 例えば明治時代には、自由民権運動と呼ばれる政治運動があります。この時、様々な民権家が、華やかに国家天下を主張しあったことはよく知られています。そして、その主張の学問的な分析は数多くなされており、福沢よりも高く評価される人も少なくありません。

 しかし、この人達は実際にどういう人だったのか、ということは歴史研究で余り重視されていないようです。理屈としては素晴らしいことを言っているが、それを実現したり受け入れてもらうために真摯な努力をしたのか、実現可能性を見極めて建設的に議論したか、あるいは自分の主張を自ら実践したか、こういうことには余り注意が払われていないようなのですが、言っていることとやっていることが違うという人はたくさんいますし、どんなに素晴らしいことを言っても、現実にそれをどうやって実現するか、全く考えない理想論も随分多いようです。

 福沢はこういったいわば書生的な青臭い議論の仕方を非常に嫌います。そして、考えていることを世の中に定着させることを重視し、一歩でも二歩でも現実を改善していくことを重視しました。そのためのキーワードが「俗」であったと私は考えます。ここでいう「俗」とは、在野、民間ということとほぼイコールです。自分の考えを受け入れてもらうには「俗」でなければならないと考えたんです。そのため、福沢は役人になることを避け、生涯一民間人の立場を貫きました。そして、勲章や爵位を貰うことを断りました。誰とも利害関係がない状態に身を置いて、自分が正しいと思う主張を世の中に問おうとしたわけです。

 もしも福沢が、政府の役人であったら、政府が有利になるように発言していると思われますし、ある政党の党員であったら、その政党を利するために発言していると思われたでしょう。勲章や爵位をもらったら、一般の人は「勲章とか爵位をもらうような偉い人の発言だから正しい」というような予断を持ち、権威を信じるということになりかねず、福沢が信じる「独立」した個人のあり方とは正反対の人間を生み出してしまうことになります。李下に冠を正さずという言葉がありますが、あらゆる可能性を考え、自分が最もプレーンな、もしくは普通よりもより低い位置に身を置いているからこそ、初めて自分の主張をフェアに、素直に聞いてもらえると考えたんですね。そのキーワードが「俗」ということです。

 これについて福沢は『福翁自伝』で、自分は「独立の手本」を示そうとした、という言い方をしています。ちょっと読んでみます。「維新政府の基礎が定まると、日本国中の士族はむろん、百姓の子も町人の弟も、少しばかり文字でもわかるやつは皆役人になりたいという。たとい役人にならぬでも、とにかく政府に近づいて何か金もうけでもしようという熱心で、その有様は臭い物にハエのたかるようだ。全国の人民、政府によらねば身を立てる所のないように思うて、一身独立という考えは少しもない。……いまこの迷いをさまして文明独立の本義を知らせようとするには、天下一人でもその真実の手本を見せたい、またおのずからその方針に向かう者もあるだろう、一国の独立は国民の独立心からわいて出ることだ、国中をあげて古風の奴隷根性ではとても国が持てない、できることかできないことかソンなことに躊躇せず、自分がその手本になってみよう…」と、こういう決意で明治時代に活動したといっているのです。自分の言っていることとやっていることを一致させ、人に見せて納得させ、その考え方を世の中に定着させる、そういう独立の手本になるというのです。


3.思想と服装の関係

 こういうわけで、福沢は手本となるべきあらゆる実践をしています。その事例を幾つか紹介しましょう。いま三田演説館の壇上にある福沢諭吉の肖像画は、着流し姿で描かれています。一般に肖像画はちゃんとした立派な格好で描かれるものだと思います。この肖像画は、演説姿ですから人前で演説をしているはずなのに、袴を着けない着流しです。これは福沢が「俗」を示すために、意図的に実践していた服装です。なぜ着流しが「俗」かといえば、当時旧武士が威儀を正す場合、羽織袴ですね。着流しといえば、士農工商の下の方の人たち、特に商人風と考えられました。日常ありのままの庶民の姿が着流しといってよいでしょう。自分は威厳のある偉そうな姿で上から発言をするのではなく、むしろ最も低いところに身を置いていろいろな発言をしたい、だからわざと身なりを崩して着流しをする。こういうわけです。

 この服装、福沢だけに留まりません。慶應義塾は福沢を原点として独立の精神を共に学び、広めていくという志を共有している仲間である、という強烈な意識が当時の義塾関係者にはありました。今日でも「社中」という言葉がよく口にされますが、それは今日のような生ぬるいものではなく、かなり強烈な使命感のようなものでした。そういう人たちの集まりですから、塾生たちも福沢の姿勢に共感すれば、みな真似をするんですね。明治初年の塾生の集合写真などを見て頂くと、きれいにみんな着流しで写っています。他の学校の写真を見ると、ちゃんと袴を着けています。ましてや今のように簡単に写真を撮れる時代ではなく、みんな構えて撮るわけですから、この服装がかなり意識的なものであったことがおわかり頂けると思います。

 さらに福沢は股引(ももひき)を穿きます。何かと股引を穿いて歩き回るんです。股引姿で散歩している有名な写真もあります。これは当時としても下品な姿なんですね。それを好んで着て歩き回った。自分の母親の葬列に股引を穿いていたというエピソードもありますし、維新後間もない頃に、仲の良い九鬼という殿様に会いに神戸に行くときも股引姿であったというようなエピソードがたくさん残っています。これも最も俗っぽい姿をわざとすることで、権威などというようなものからは最も遠いところに身を置いていますよ、というポーズですね。そういう「俗」な私も、これからの新しい時代は卑屈にならずに胸を張って堂々と生きる。これが独立自尊ということだというわけです。

福沢諭吉の服装

 このように偉ぶらない服装を良しとする風潮は、慶應義塾で永く受け継がれ、それが慶應のオリジナリティになっていきました。たとえば、詰め襟の制服に丸帽をかぶるというのが戦前から戦後にかけての義塾の学生の伝統でしたが、他の大学は角帽をかぶるんですね。一般に大学予科とか旧制高校は丸帽なんですが、大学の本科に進むと角帽をかぶったんです。慶應でも大正はじめ頃には学生に角帽を定着させようとするんですが、学生側が嫌がるんです。あんなものは偉そうで格式張っていて慶應らしくなく嫌だと。最終的には当局が制服の規定の中に丸帽を正式に定めています。身なりに人の精神のあり方が投影され、人の精神も自ずと形作られていく、そういう発想が福沢没後も言外に生きていたんだと思います。


4.文字を通した「俗」の実践

 次に俗文主義とも呼ばれた、福沢の文体についてです。福沢の文章、例えば『学問のすゝめ』も『西洋事情』も今読みますと難しいようですが、当時としては異例の簡単さで有名でした。誰にでもわかり易く、しかも俗っぽい言葉もわかり易さを重視して多用しているというので「俗文主義」といわれたんです。福沢は『福沢全集緒言』という本の中で、「山出しの下女」へ障子越しに聞かせても意味が通じるくらいの平易さ、つまり田舎出のお手伝いさん、これは余り学問がない人、という意味で言っているわけですが、そういう人が、誰かが福沢の本を読んでいる声を障子越しに聞いても完全に理解できるくらいわかり易い文章でなければ自分の本意ではないと書いています。

 文章を難しく偉そうに書くのが一種のステータス、権威のように思われ、それに多くの人が騙されていると福沢はいうんです。そういう本は、だいたい明け透けに書くと大したことないから、わざと飾って偉そうにしているのだといって、学問のない人を勇気づけて、さあ私は明け透けに書いて議論する、誰でも読んでくれ、そして納得したら実践しましょう。そういうスタンスで文章を書くわけです。

 福沢は人に頼まれて掛け軸などを書くと、「三十一谷人」と刻んだハンコを押していました。これは「世俗」という漢字をバラした頓智みたいなもので、卅(三十)+一で「丗」(世の異体字)と、人偏に谷で「俗」になる。つまり自分は世俗、俗に徹するということをこうやって公言するんです。普通は雅号などに凝って、難しい漢籍に出典を求めて博識を競うようなことをするわけですが、福沢は権威に対抗して俗に生き、民間に生きるということを、こういうように様々な形で示していました。

印章:三十一谷人

 文章の中で権威に抵抗し、「俗」に徹する象徴的な例をいくつか紹介してみましょう。これは私が好きでいつも引用するのですが、『福翁自伝』に「学者を誉めるなら豆腐屋も誉めろ」という一節があります。ある時福沢のところに友達がやってきてこういうことを言ったというんですね。明治維新前後に多大な貢献をした福沢を政府は何らかの褒美を与えて誉めなければならないと。この友人に対して福沢はこう言ってやった、というんです。「ほめるのほめられぬのと、全体ソリャなんのことだ。人間が人間当然(あたりまえ)の仕事をしているに何も不思議はない、車屋は車をひき豆腐屋は豆腐をこしらえて、書生は書を読むというのは、人間当然の仕事をしているのだ。その仕事をしているのを政府がほめるというなら、まず隣の豆腐屋から誉めてもらわなければならぬ。」福沢はこういうことを平気で言う人だったというより、むしろ好んで機会を見つけて言う人だったのでしょう。

 権威や官尊民卑を徹底的に嫌う文章には面白いものがたくさんあります。例えば「払い下げ」「買い上げ」という言葉、今でも使われますが、これはおかしいから廃止せよと主張したことがあります。「官より物を売るには払下と云い、物を買うときは買上と称す。この上下の文字は如何なる意味か。政府は天辺に位して人民は地下にあるの義なるべし。このままにて来年(国会開設の年)に至り、国会の用物を買い、また不用物を売るなどのこともあらば、やはり買上払下と云うべきか。人民の名代人がその本人に対してかかる無礼も不都合なるべし。」(1889年「国会の準備の実手段」)実にもっともなことを明け透けに言っています。あたりまえに使用している言葉の中に、権威主義あるいは体制におもねる気風を発見しては、それを人々に問題提起しています。そうやって、ハッと思わせるのが得意なんですね。

 他にも、政府の肩書きを問題にします。「書記官」という肩書き、今では外務省でしか聞きませんが、昔はどこの役所も書記官という肩書きがありました。これが偉そうだからやめろというんですね。「『書記官』の『官』の字はこれを止めて、単に『書記』とするか、あるいは『支配人』『手代』などの名に改めて民間にある同職の者と称呼を同様にし、尊卑を平等にする方、穏当なるべし。」(1890年「尚商立国論」)「書記」なんだったら「書記」でいいじゃないかと。あるいは実際の仕事が、民間の会社や商家でいうところの「支配人」や「手代」と一緒なのであれば、それでいいじゃないかと。なぜわざわざ役所だからという格式張った肩書きを振りかざすのか、そういうところに権威主義が生まれ、民間の人が卑屈になる端緒が潜んでいると。

 もっと核心に迫るものもある。「我輩かつて説をなして曰く、今日の弊は政治を偏重するより甚だしきはなし、この弊風を矯めんとするには、まず政府の光明を薄くするより先なるはなし、その光明を薄くするの実手段は種々ある中にも、大臣の称を改めて番頭と呼び、書記官を改めて書記または手代となす等、名称より延いて実際に及ぼすべし。」(1893年「党名一新」)「大臣」と言うから偉そうに聞こえるから、「番頭」と呼べと、こういう乱暴な議論です。政府も世の中の一つの仕事をしているに過ぎず、政府の仕事は尊く、民業は卑しいなんてことはないのだから、萎縮することはないよと、権威を壊そうとしているわけです。

 こういう主張もあります。「我国の政党はその党名のいかめしきがために、政治を偏重するの弊風を助け、また党派の間柄を殺風景ならしむる等、一として嘉すべきことなければ、今より趣向を一変して『め』組にても『ろ』組にても苦しからず。あるいは一歩風流を追うて桜花党、梅花党などもまた妙ならんか。」(1891年「党名一新」)「自由党」とか「改進党」とかいうと、何か難しいことを考えている偉い人たちだと騙されてしまう。だからみんな政治をやっている人は偉い人だと、誤った考え方を持ってしまうと。これらを徹底的に俗化して、実際のところを誰もがしっかり考え判断できるようになること、それが「独立」ということなのだと、そのためにこういうことをいうわけです。ただ、本気でこういうことを実現するつもりというより、こういうことに無自覚であることに注意を促しているわけです。

 非常に有名なエピソードに『言海』という日本初の近代的な国語辞典の完成披露パーティーに関する話があります。そのパーティーに招待された福沢は、事前にプログラム表を見て激怒し、自分の祝辞の朗読(代読)を取りやめさせ、プログラムから自分の名前を抹消させました。プログラムは、来賓からの祝辞で始まり、「伊藤伯」(伊藤博文)の次に福沢の祝辞やその他の学者の挨拶が続くことになっていました。福沢はそれに怒るんです。なぜ学問分野の功績を祝うパーティーに政治家の伊藤博文を呼び、一番先に挨拶させるのか、世の中で一番偉いのが政治家という格付けを暗黙のうちに認め、学者はその下というのはおかしい。これは学問の世界のためだといって自分の名を塗りつぶしたプログラムを主催者に送りつけるんです。それが今日も残っています。

 伊藤との間にはいろいろな因縁がありまして、これはその一つに過ぎませんが、福沢は特に伊藤に対しては遠慮がなかったようで、福沢が伊藤博文宛に出した明治20年4月14日付の手紙というのも、これまた痛快です。いわゆる鹿鳴館外交の時代に、永田町の首相官邸で仮装舞踏会が行われたことがありまして、それに福沢も招待されたんですね。福沢はこれを素っ気なく断っているんですが、その手紙が残っていて、これがまた面白いんです。手紙には、お断りの理由として「家事の都合」と書いてあります。総理大臣の招待ですよ。そして、お断りの「断」という文字がことさらに黒々と大きく書かれています。この手紙は岩波文庫に入っている『福沢諭吉の手紙』という本の表紙になっていますから、もしよろしかったら見てみて下さい。

 いろいろな例をご紹介しましたが、ここで重要なことは、福沢の言葉を借りれば「政治は独り文明の源にあらず」といい、「文明の事を行う者は私立の人民」といった、その姿勢を貫いたということです。「私」の力で立っている独立した人が「私立」、政治という世の中のごく一部分のことに奔走している人を、何か大変偉い人たちのように日本人は誤解しているが、そうではない、政治の世界の外にいる、ただ一般の人々こそが文明の担い手であり、この国の独立を担っていく人なのであり、そういう人たちが相互に高め合っていくことが大切なんだと。一般の人こそが頑張り、良くしていこうとしている状態が文明なのだと、これが福沢の文明論のエッセンスというべきものなんです。


5.「俗」から「文明」へ

 このことについて、福沢の『文明論之概略』との関係で、もう少し掘り下げて考えてみましょう。この本は明治8(1875)年に出されていますが、今日見ると、他の福沢の本の中でも群を抜いて難しくみえると思います。俗文主義と矛盾するじゃないか、こう思われるかもしれません。実はこれも福沢がポーズとして意識的に装った文体なんですね。この本は本来「儒教流の故老」に向けて書いた、と福沢は書いています(『福沢全集緒言』)。コチコチの老儒学者たちは、福沢の西洋の学説何するものぞと、ハナから福沢に反発しているけれども、彼等を敵から味方にしてしまおうという意図で書いた、と説明しているんです。人を見て法を説けという言葉がありますが、まさにこれは、それなんです。広く一般の人々に読ませたいときは、極めて俗に書く、学者に読んでもらうためには、彼らのプライドに合わせてわざと難しく学者の文体で書く。こういうわけです。単に文体だけでなく、見た目も工夫されていて、この本は、非常に大きな古めかしい書体の版本になっています。この本を読んでもらいたい老学者たちはこういう古臭い体裁の本を愛読してきたであろうし、年も取って老眼で目もショボショボしているだろうから、こういう見た目にしたと、福沢自身が後になって書いています。受け入れて欲しい相手を具体的に想定して、それを動かしていくことで、世の中を変えていこうという、非常に建設的な姿勢がよくわかると思います。

 さてこの本では、「文明」とは人の身を安楽にし、心を高尚にすること、すなわち「智徳」の進歩する状態というように理解されています。「これが文明」というように完結したものとして「文明」というものが存在するのではなく、向上していく、良い方向を目指していっている状態が「文明」なんですね。だから、人々の進歩には到達点がなく、無限に進歩していくものだと考えます。具体的には、智(intellect)と徳(moral)が進歩していく状態といっていますが、この本は、儒学者向けに書いているわけで、儒教はほとんど道徳の議論だから、十分勉強されているわけです。だからこれからは智を重視しなければならないということに重点が置かれています。

 注目すべきは、文明論は「衆心発達論と云うも可なり」、「天下衆人の精神発達」を目指すんだ、こういう表現があります。ある時代に、非常に立派な学者や政治家が一人登場しても、それは「文明」ではない、ということです。できるだけ多くの人、天下の衆人が向上しようと努力する、すなわちそれは「独立」を実践するということになりますが、そうしなければ、「文明」とは言えないんだと考えるわけです。歴史は、偶然やある一人の偉人によって動くのではなく、日常の一般の人々が広く頑張り、高まっていくことで発達していくんだとこういう考え方なんです。そして、これを当時の日本の状況に照らして端的に言い換えると「一身独立して一国独立す」、こういうことになるわけです。福沢が演説とか討論という言葉を訳語として作ったというのは有名ですが、それは、演説や討論を通して、一人の知識が多くの人に共有され、また相互に高め合っていくことができる、文明を目指すことができるからです。日本にはそのように他者と対等に議論し合うという習慣そのものがなかったから、福沢は演説会というものをはじめることになるわけです。


6.文明論と地方への目差し

 ここで福沢の地方へのまなざしということについて考えてみます。福沢は「天下衆人の精神発達」を目指していくわけですから、東京にいる人、大阪にいる人、というように大都市にいる人だけが勉強して立派な考え方を身に付けて行動をするだけではダメということになります。日本全国にそういう人たちが現れて、さらに人々を激励して、全体として向上を目指していく、発達させて行くことが日本に必要であり、そのための人材を慶應義塾で生み出していく。そうしなければ、「文明」とは言えないし、そうしなければ真の独立は勝ち得ないということになります。

 では「独立」している人というのは、どういう人なのかというと、いま述べてきましたように智徳、特に今まで余り大切にされていなかった智力を発達させて、理屈として「独立」ということの大切さを理解し、それを尊重する考え方、生き方を目指すことが大切になります。つまり精神的な独立です。でも福沢の議論はこれだけではないんです。さらに経済的な独立が同時に大切であることを説きます。江戸時代の武士は、黙っていても食い扶持が宛がわれていたわけですが、これからはそうではない。自分で稼いで、自分で生活する経済力を身に付けなければならない。そして、実はそうやって自分の力で生きることができて、初めて他に頼らず自分の信じることを信じるままに行っていくことができ、精神的独立も全うすることができるわけです。だから頭だけではダメで、経済力も伴ってこそ、「独立」の個人ということができる。そして、経済的独立を目指していく場は、民間、世俗なわけですね。

 この福沢の独立論を象徴する議論が「尚商立国論」と呼ばれるものです。これまでの日本は「尚武」、すなわち武を尚(とうと)ぶ国であったが、これからは商業を尚ぶ国にならなければいけない。こういうことを盛んに論じて、口で言うだけでなく、自分で実業界に乗り出しますし、門下生も続々と実業界のパイオニアになっていくわけです。今日、近代日本の実業界の発達を見ていく上では、福沢や福沢門下生を避けて通ることができないのはこのためですし、慶應が長らく実業界に強いという印象を持たれてきたのも、この流れがあってのことです。しかし、福沢はあまりにも金儲けのことをいうというので、当時の慶應義塾は拝金宗と悪口も言われました。慶應義塾出身の高橋義雄(後に茶人として有名)は、福沢の実業奨励論に呼応して「拝金宗」というタイトルで、アメリカの経済界を解説する本を書きました。これは大変どぎついタイトルですし、本の表紙には、キリストが磔にされ、孔子と釈迦が後ろ手に縛られ、紳士淑女が孔子や釈迦にアッカンベーをして大黒様に向かっていくという、ナカナカとんでもない画が描かれています。起爆剤とでもいうべきものだったのでしょうが、この本によって「拝金宗」という言葉が生まれ、慶應義塾は「拝金宗」の総本山、福沢はその金の亡者の教祖という批判も浴びることになりました。

「拝金宗」の表紙

 このような福沢の考え方からしますと、福沢門下生の代表のようにいわれる犬養毅や尾崎行雄は、不肖の弟子であったといえます。なぜなら彼らは政治活動に熱中し、結婚して家庭を持っているにもかかわらず、身の回りやお金のことに見向きもしなかったんですね。ですから実は彼らは福沢のいう精神的独立は実践しても、経済的独立の側面には欠けていたというべきでしょう。そういう赤貧洗うが如き生き方が、当時の民権家や政治家のステータスのようなところもありました。福沢は見かねて、犬養や尾崎の留守中知らないうちに、黙って家族にお金を渡していたと伝わっています。


7.本当の福沢山脈はいずこ

 福沢の門下生たちは「福沢山脈」と呼ばれ、多くの実業家がいますが、ここでは余り知られていない実業に関する4つの事例を紹介してみたいと思います。まず一つ目は小暮武太夫という人のエピソードです。この人は伊香保温泉の歴史ある一番湯の宿の主人で、代々小暮武太夫を名乗っている家の人です。この人が慶應義塾に入学しました。このような立派な家業がある人でも、当時の風潮としては、役人になることに強いあこがれがあったようで、ある日彼が、福沢の家に遊びに行って、あなたは卒業したらどうするんだと問われて「役人になりたい」と言うんですね。木暮の回想が残っているんですが、その時福沢はすぐに家業を聞いたそうです。そこで温泉宿をしていると言うと、「そんな立派な家業を捨てて役人になるとは何事だ」と叱責するんです。しかし木暮は「自分は宿屋の亭主になどなりたくない」と食い下がります。「一人前の役人になり、立派な人力車に乗って、威張りたい」とこう言ったそうです。すると、福沢は「宿屋の亭主といってバカにするが、いまでこそ微々たるものでも、西洋では温泉業はますます盛んになり、見込みがある。学問を一通り済ませたら、郷里へ帰って、代々の業を盛んにせよ。もしも余禄があれば、土地を買え」と、こういう意味のことを言ったそうです。それでも木暮は「役人になりたい」と言ったら、福沢は「何だ、役人何者ぞ、パブリックサーバント(公僕)ではないか、あんなものになれば、年を取ると威張るどころか、一番つまらないものになるぞ」と言ったので、とうとう小暮はその時役人になることを諦めたという話です。当時の風潮がよくわかりますね。官界、あるいは政界が偉い、商業なんてものはいかにも劣ったものということで、士農工商の意識が未だ歴然としていたわけです。その方の家の宿は、今でも一番湯と呼ばれる最も格式ある宿として伊香保の老舗旅館として残っています。ちなみに小暮さんはやはり政官界への夢を捨てられずに、後に国会議員になっていますし、その息子さんの武太夫は戦後に大臣にもなっていたはずです。

 次に紹介したいのは、ノリタケという会社です。アンティークで「オールドノリタケ」の食器というのを耳にされたことのある方もいらっしゃるかと思います。あのノリタケです。名前の由来は愛知県の則武村、陶磁器製造が地場産業の場所です。そこに元々あった産業をよりよく高め、そこを拠点に海外にも受け入れられる品質の製品を造り発展したのがノリタケです。その母体が森村組という商社で、福沢に共鳴する森村市左衛門という人物やその子供たち、福沢門下生たちが築きあげました。地方にある産業を高め、世界規模にしていく、しかもその産業技術を大都市に持っていくのではなく、あくまでその地で育てていくという姿勢(今も本社は愛知県の則武)は、福沢の主張していた文明の思想に通じるものといえるかと思います。

 3つ目の例は箱根です。箱根をリゾート地として開発した人々の中に、福沢の思想に強く影響を受けた福住正兄(まさえ)、山口仙之助といった人物がいます。福住正兄は箱根福住楼という福沢の湯治の定宿、老舗旅館の経営者です。山口仙之助は福沢門下生で、富士屋ホテルの経営者です。福住は、自費で箱根に続く道路を整備するなどインフラ整備に尽くし、山口も初の外国人専用ホテルとして旅館を発展させ、村長としてリゾート地箱根の整備を進めました。その土地にもともとある温泉という資源を利用し、地域の活性化を進め、近代化を図っていくことで、今日の箱根発展の一翼を担ったケースです。

 もう一つ例を挙げます。北海道の浦河というところを開拓した沢茂吉という人物です。この人は兵庫県の三田(さんだ)出身、慶應義塾に学び、地元キリスト教徒の同志を集めて北海道開拓のための結社を作り、浦河の荻伏という場所に入植しました。そして、そこでその土地の開拓と新産業の振興に生涯を捧げました。キリスト教徒の結社ということもあり、入植者たちは折り目正しく開拓に精を出し、そのリーダーとして活躍したのがこの沢さんです。この人に対して福沢は晩年に、「人生の独立、口に言うは易くして、実際に難し、二十年の久しき御辛抱、敬服のほか御座無く候」と書簡を送っています。これほど福沢が心底讃えている書簡は他にないと思われます。北海道は元々産業が存在した場所というよりも、移住して新しい産業を生み出して、日本の近代化の一翼を担っていくことに挑戦した土地でありました。その一つの小さな実践に対して、福沢はとてもうれしく思い、感激をしたようです。

 実は昨年の秋、福沢諭吉展で沢茂吉の資料をお借りしていたので、その返却のために北海道の浦河に行きました。入植のために作られた結社である赤心社は、今も一商店として営業しています。私は墓参を趣味にしていますので(笑)、沢茂吉のご子孫にぜひお墓参りをさせて欲しいとお願いしましたところ、町外れの共同墓地に案内して頂きました。そこには、遠く兵庫県三田からこの地に入植し、そしてこの小さな町を見つめて生涯を終えていった沢茂吉のお墓が確かにあり、しかも墓石に刻まれた碑文の中に「独立自尊」という四文字がありました。福沢の精神に影響を受けたということは、慶應義塾出身であることとか、福沢との書簡のやりとりであるとか、そういうことから推測し、論文などに書くことは簡単ですが、この「独立自尊」という字を見たとき、福沢の説く「独立」ということを実践しようと、この地に生きた一人の人物の生涯というものに、非常に強いリアリティーのようなものを感じました。北海道の寒風の中に、何十年も前から人知れず刻まれていた「独立自尊」という文字に、とても大きな重みを感じました。

 ここに紹介した4つのエピソードは、福沢が本当に望んでいた文明とはどのようなものであったか、独立とは何であったかを考える上で、多くのことを教えてくれるように思います。今まで福沢門下生といえば、大都市型の大企業の幹部になった人たちだけが注目されていましたが、それだけではないということなのです。このことについては、去年の福沢諭吉展でも特に重点を置いて紹介したポイントで、今なお地方で尽力し、無名のままである福沢門下生、慶應義塾の先輩方の掘り起こしが行われています。


8.福沢晩年の憂い

 その観点から考えますと、福沢は大満足で生涯を終えていったわけではないようです。むしろその逆で、自分の言葉に従って実業界に進んだ多くの門下生たち、あるいはその人たちを中心に、いよいよ盛んになってきた日本の実業界の人士のあり方に、強い不満を持ちながら生涯を終えていったようです。名を上げた実業家には、日々酒池肉林の宴会を繰り広げ、自分たちだけが良ければ良いという商売に走ってしまった人たちもいました。福沢は智と徳のうち、これまでの日本は儒教ばかり勉強していて十分徳(モラル)を備えているから、むしろ智を備えなければと『文明論之概略』では智を強調していますが、彼らの実践に徳が大きく欠けてしまったことに大変失望したようです。最晩年の福沢は、信頼する門下生を全国に派遣して、「独立自尊」という語を柱とするモラル向上の運動を開始しまして、最晩年には慶應義塾を解散してその売却資金をその運動にあてようと主張したこともあったという記録があります。晩年の福沢はそれほどに実業界あるいは日本の智徳の状態に危機感を抱いて亡くなったようです。『福翁自伝』の最後には、人生愉快でたまらなかったというように書いているんですが、実は自分の思想を受け継いだという門下生たちが自分の考え方を十分に理解しておらず、社会において違うことをしているのではないかという違和感を強く持っていたということが、様々な資料から明らかになってきています。

 「衆心発達」を目指し、広く人々が高め合っていく状態が「文明」であり、慶應義塾出身者はその先導者でなければならないと考えた福沢でしたが、果たして福沢のいう「文明」は今日の日本にあるのでしょうか。また慶應義塾出身者はその担い手になり得ていると言えるでしょうか。時代状況が随分変わっているとはいえ、現状に卑屈にならず、自ら考え行動する精神的独立を保ち、なおかつ経済的にも独立した、真の独立した個人になっているだろうか、そういうことを今一度考えることは、慶應義塾出身者にとって無意味ではないと思います。独立した個人の全国各地での主体的な活動、社会活動によって、日本全体を高めていく、そういった成熟した民間の姿をいま我々は実践しているだろうか、そういうことを創立者を知ることによって身近に考える機会を持てるということ、それを慶應義塾出身者はもっと活かしても良いのではないかと思います。「独立」した「民」が育つところに「文明」があり、そこに人々の幸福もあると福沢は考えました。福沢という人は「独立」や「文明」というものを、どこか遠くの話ではなく、身近な自分の問題として時に思い返して考えるという、今日なお新しい問題を提起し続けてくれています。


(質疑応答)
質疑:
今の日本の社会が、どういう社会なら福沢先生の目指していた社会なのか。
応答:
今の社会をどうしたらいいか、という「答え」を福沢は直接教えてくれるわけではないと思います。ただ、どのように考えていくべきかという指針、考え方のセンスを教えてくれると思うのです。やはり福沢の時代と今日の時代では、時代状況が違い、旧武士に対する権威、あるいは武士は自分で経済活動をしなくても生活ができ、経済活動は卑しいとされる時代だったというようなことは実感もありませんし、余り意味がありません。福沢の発言や活動は、それらを打ち破るための具体的な形で多く残っていますが、その背後にある独立や文明といった考え方の発想、これが現在でも全く色あせておらず重要なわけです。今日の社会にも「権威」とされるもの、所与のこととして誰も疑問に感じない予断のようなもので、実は考え直すべきことがたくさん潜んでいることを教えてくれ、その問題と向き合い解決していくためのヒントをくれています。今どうすべきかは、我々に課された問題だと思います。『文明論之概略』でも、10章の内9章までは文明それ自体を求めるべき尊い「目的」としつつ、最後の章では、今の日本はとにかく独立を求めなければならない時であり、とりあえず今は独立を求める「手段」が文明と心得なければならないと書いてあります。最後の章だけは、当時の人のための処方箋なんですね。福沢の議論は、目先の状況に合わせた短期的視野の処方箋と、普遍的な根本的な思想を説くエッセンスの部分とをよく見極めなければ、見誤ってしまいます。それが福沢の面白いところでもあります。


質疑:
福沢先生は、政治中心の世の中から、経済中心の世の中へ、思うにアメリカや西洋の列強が経済中心になり、世界はさらに狭くなり、ボーダレスエコノミーなど、世界の経済活動はさらに活発になるという先見の目を持っていたようです。今日、EUのようにボーダレス化したり、国境のある国民国家より企業などが世界経済の主体になりつつあるような状況があります。そのような今日の世界、経済活動中心の世界になるという含みが福沢先生の考え方にあったように思うがどうだろうか。
応答:
いま、国と国との関係より、企業などの民対民が前面に出る世の中になってきていますが、そうなっていくべきだし、そうなっていくということを考えていたことは確かだと思います。経済的な接触も含め、人的な交流が活発になることで、互いの情を知り、互いに持ちつ持たれつという関係が発達し、平和というか、武力的な争いについても緩和されるのではないかという考え方も記しています。そしてその担い手は政府ではなく、やはり民間であるわけです。そういう場でこそ一人一人が試されるので、自覚を持ち、学問もモラルも身に付けた「独立」の存在にならなければならない。こういった点への意識は、福沢に確かに存在していたと思います。

注)各種画像は「文責:高橋豊」が参考に補足追加しました。

(文責:高橋豊)
記念講演での講師と聴講者

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