☆☆☆全国通信三田会2011年秋期幹事会記念講演要旨☆☆☆
メディアと政治
−政策報道と政局報道−
慶應義塾大学 大石 裕 法学部教授(法学部長)
●
日 時 2011年10月15日(土)15:00〜16:15
●
場 所 慶應義塾大学 三田南校舎4階 445教室
メディアと政治
−政策報道と政局報道−
慶應義塾大学 大石 裕 法学部教授(法学部長)
はじめまして、大石裕です。本日は「3.11」震災報道を中心に「メディアと政治」についてお話しをさせて頂きます。私の専門は「政治コミュニケーション」、および「ジャーナリズム論」です。法学部長はまだ成り立ての新人です。9月30日までは、かつて「新聞研究所」と呼ばれ、現在「メディアコミュニケーション研究所」と呼ばれております研究所の所長をしていました。
1.はじめに:「メディアと政治」の現在
早速「メディアと政治」について、お話を進めさせて頂きます。最初に戦争報道についてです。メディアが戦争を変えたと言われています。古くはベトナム戦争のように、アメリカは南ベトナム民族解放戦線に負けたが、実はメディアに負けたとも言われています。メディアが積極的に悲惨なベトナム戦争を報道したことで、アメリカ社会に厭戦機運が高まり、戦争終結とアメリカの敗戦を導いたと言われていました。
その後、アメリカは1990年代に入り、イラクがクエートに侵攻したことにより、「湾岸戦争」を開始しました。この時、ベトナム戦争の教訓から、厳しい報道管制を布かれました。このために、油まみれの水鳥の写真は、サダム・フセインが原油を撒いたと宣伝されましたが、実際はそうではありませんでした。多国籍軍の攻撃の正当性を主張し、イラクの行為が誤っているという報道にメディアが総動員され、戦争の取材も厳しく制限されました。2000年代になり、「イラク戦争」では、軍隊とメディアが一体となって、軍隊の保護の下で報道するというようになりました。このように、メディアの戦争との密接な関わりは、メディアと政治の重要な側面です。
もう一つの側面は「メディア・ナショナリズム」です。この言葉は耳慣れないと思いますが、2005年の中国での反日暴動を事例に編み出された言葉です。これは日本の安全保障理事国入りの動きに対して、日本はいまだに先の戦争について十分反省していないのに、なぜそのような動きを起こすのかという反発がまず韓国で生じました。これが中国に飛び火し、反対運動が拡大し、反日暴動となりました。この時、マス・メディア(新聞やテレビ)だけでなく、携帯やパソコンを中心としたメディアが利用されて運動は拡大しました。今では、ニューヨークでの様々な運動、雇用の確保や一部の財界人だけが富を独占するのはけしからんということで、デモが起きています。「中東革命」も新たなメディアがさかんに利用されたようです。新しいメディアを使って中国での反日運動が盛り上った。これはメディアにいろいろな使い方があり、使われ方によっては国内の世論に火をつけるという役割を果たしうることを示唆しています。特に、中国では新聞や放送はいまだ厳しい統制下にありますが、新しいメディアにより、インターネットを中心にして市民運動が起きたというわけです。これがメディアと政治のもう一つの重要な側面です。
このように、既存のテレビや新聞が様々な形で政治に関わってきましたが、今ではインターネットの衝撃には非常に大きいものがあると言えます。例えば、「ネット世論」と呼ばれるものがあります。かつては、世論(問題や争点に関する意見の分布)を形成するのは、新聞とテレビでしたが、近年、それは大きく変貌してきました。特に、若年層(大学生など)は新聞やテレビに接することが少なく、それよりもネットを通じて新聞を読みテレビを見て、ネットを通じて週刊誌や月刊誌を読む。同時に、読むだけでなく、自分からいろいろなところへアクセスしています。正式な世論調査のように、世界からサンプリングや男女比率を考慮して調査をするわけではありませんが、反対か賛成かをクリックするだけで、ひとつの世論が形成されるということも生じています。
ネットではある強硬な意見が述べられることがあります。また、スレッドが延びるという言い方がありますが、そこではいろいろな意見が披瀝されます。それを面白がり、初期は10代20代の利用者が中心でしたが、最近は利用者の年齢は年々上がってきています。そして、テレビや新聞を読む世代より、ネットにはまっている人達は、ネット世論に信頼を置くようになっています。そこには、既存のテレビや新聞に対する不信感があります。自分が直接参加できるメディアの方が信頼できるし、面白そうだというのです。
その一つの形態が「YouTube」です。これは海上保安庁の職員が「YouTube」に、中国漁船が衝突してきた様子の映像を掲載したということで話題になりました。それから、もう一つが「WikiLeaks」です。これはいろいろなところで、政府の公文書がコンピュータによるハッキングで入り込み、言葉は悪いが、ある意味で盗み出し、行政府や役所が公開しない資料や情報をコンピュータの中から引き出しています。もちろん、「WikiLeaks」のメンバーがその行為をするのでなく、ハッキングした人から情報の提供を受けるわけです。ですから、その情報が真実かどうかについて、「WikiLeaks」のメンバーは慎重になります。考えてみると、かつての毎日新聞の西山記者の沖縄の核の密約問題がありました。今でも外務省はその文書は存在しないと主張していますが、それに関するいろいろな文書が見つかっています。同様なことが「WikiLeaks」により、コンピュータ内の文書が引き出され、今まで新聞記者が取材してきたことを一気に飛び越えて、日本中だけでなく、世界中に公開されるようになりました。このように考えると、インターネットは非常に大きな影響力を持っており、今までのジャーナリズムのあり方を大きく変えて行く可能性を持っています。その背景には、新聞やテレビが絶対的な存在であったが、相対的な存在になり、重要だが幾つかあるメディアの一つになってきたと言えます。
国内政治に目を転じて見ると、メディアと政治という点で、大きな分水嶺になったのは、小泉政治であると思います。小泉政治は終わり、郵政の問題はかなりの巻き返しがあり、小泉政策の負の面も出てきたという見解を持つことも可能です。しかし、その後の総理大臣の指名や候補の選び方、民主党の代表選や自民党の総裁選の状況を見ると、小泉政治の呪縛から逃れえたのかというと逃れられていない。たまたま野田さんは、それまでの鳩山さんや菅さんが比較的にパーフォーマンスの好きな方でしたので、やや落ち着いているように見える雰囲気を持っています。小泉さんのような政治は面白いけれども、政策と政局がうまく行く時はよいのですが、その後の政権を見ると政局やパーフォーマンスばかりに走り、政策についてきちんとした処理をしていないのではないか、それならば、地味でもよいから野田さんのような安定感のある総理大臣がよいのではないかという評価があると考えられます。その結果、発足して間もないこともあり、野田さんに対する支持率は50%以上をキープしています。
小泉さんの前では、中曽根さんがテレビを使うのが上手かった。ホテル・オークラのプールで泳いだり、レーガン大統領を山荘に連れて行き、法螺貝を吹いたり、パーフォーマンスが目立った。それをより徹底させたのが小泉さんであり、その呪縛から逃れられていないのが現在の政治家たちだと言えます。2005年の刺客を巡る選挙から、6年経過していますが、この選挙は今でも何かと話題になります。そう考えると、メディアと政治はネットの衝撃を受けつつ、テレビ映りやテレビでどのようなパーフォーマンスをするか、複雑な問題を簡単な一言で言い、人々の印象に強く残るようにする。自分は政策をどれだけ実行できるかわからないが、例えば、竹中平蔵さんをブレーンに加え、飯島勲さんを報道官に使って、小泉さんはその上で長期政権を巧みに可能にしたわけです。
2.「3.11」震災報道
次に「3.11」震災報道を振り返ってみます。震災報道とその後の原発報道、これらの報道と政局報道、もっと端的に言えば、菅降ろし、菅政権に対する批判、そして支持率の低下を招いた、すなわち負のスパイラルを招いた報道について考えてみます。その一方で、「ガンパロー日本」という掛け声を体現するような報道はいまも続いています。国が一体となって、地震、津波、震災、原発という国難に立ち向かうという主張が強く出ていた報道が存在する一方で、その先頭に立って頑張っているはずの菅さんを引きずり降ろすという動きが生じた。普通に考えれば、これはあり得ない。菅さんが退陣したら、政治が空白になるのは目に見えている。それで菅さんは、粘りに粘って、8月まで政権を維持した。もしも菅さんが3月4月の段階で政権を放り出していたらどうなっていたでしょうか。もちろん、菅さんがそれほど有能な総理大臣ではなかったということは多くの人々が認めていますが、あの時に政治の空白が生じて、国会が何日も何十日も止まる。そのような空白が4月5月に許されたのだろうか。メディアは菅さんに「辞めろ、辞めろ」と言いながら、世論調査の方は菅さんは辞めない方がいいという結果でも出ていました。ではあの報道は何だったのか、いま考えてみると、被災地の悲しい現場で新聞の一面が埋め尽くされ、二面では「菅何している」、社説では「菅批判」、そして「世論調査の支持率は低い」という記事が出ている。この状況をどう考えたらよいのか、このことを主題に話を進めていくことにします。
まず、「3.11」震災報道はどういう報道だったのか、朝日新聞ジャーナリストが発行している月刊「ジャーナリズム」6月号に震災報道の検証が行われています。そこでは、報道のバランスのとり方が非常に難しかったことが指摘されています。関東圏、東京周辺からいらした方は思い出して頂きたい。私どもは、3.11当日、びっくりするようなことを経験しました。何10kmも歩いて自宅に帰り、車の中に閉じ込められ10時間もじっとしていた人もいた。このような帰宅難民報道と被災地報道、特に全国メディアは、このどちらにバランスとるか、出来事の衝撃度から言えば、多くの方が亡くなった宮城、岩手、福島、その後の原発を重点的に報道する状況にあったわけです。しかし、実際に帰宅難民が数多く存在した。その両者に関して、どうバランスをとって報道するかという問題が存在しました。それから、思い出してほしいのが計画停電です、電力供給が困難になった時点で、ジャーナリズムは東京電力と経済産業省を批判するようになった。一方で、被災地に支援物資が届かないこと、被災地の寒さに関する報道がある。メディアはどちらの報道にウエイトを置くかという問題を抱えたわけです。さらに、余震を含む地震津波報道、とにかく余震が多く、大規模の余震が次から次へと起きていました。週刊誌などは日本列島が沈みそうな大地震が来るようなことを報道した。その一方で、福島の原発事故が深刻化しました。その結果、岩手、宮城、福島などの被災地の報道と原発報道とのバランスという問題も存在していました。
それともう一つが政策報道と政局報道の問題があります。菅政権が次々といろいろな対策や政策を講じている中で、政局も一緒に動いていました。確かに当時、菅さんは瀕死の内閣でした。発足から半年程度で急速に支持率が低下し、パーフォーマンスはするが、政策の実行力が伴わない。政治献金でも疑いが掛けられ、この問題ではすでに前原さんが辞任していたので、菅さんはどうなるのという状況の時にこの大震災が起きたわけです。意地悪なジャーナリストは、菅さんは震災で救われたという失礼な言い方をしました。さすがに全国紙はこのような言い方はしませんでしたが、内容を読めば、そのような匂いがぷんぷんする発言や構成になっていました。
3.政策報道と政局報道−「3.11」以降
「3.11」以降を考えると、非常に早い段階で、産経新聞と読売新聞が菅政権の批判を始めました。その後、朝日新聞と毎日新聞が批判を開始しました。どのような表現を使ったか、東京電力の幹部に対して「どなる首相」、いち早く福島原発に駆けつけたことを含め「政治ショー」、このような言葉を使いました。菅さんはこの震災で延命を図っているのではないかという批判、菅さんの政治的指導者の資質を疑わせる表現、菅さんは危機的状況では冷静ではいられないといった指摘がされました。菅さんが原発事故の現場に飛んだことに関しては、2つの見方ができます。アメリカ大統領がハリケーンの被災地に飛んだ時、いち早く被災者を励ました、これは良かったという言い方がされました。
他方、こうした行動により指導者は大局観を失い、適切な政策判断が下せなくなり、感情移入によってバランスを失った判断に走りがちだという批判も生じます。これと同じことが菅さんにも言えます。もし現場に駆けつけなかったら、現場も知らずして怒鳴りまくる首相と批判されたでしょう。でも、行ったら行ったで、こういう時に総理大臣はどっしり構えるべきだと批判されました。菅さんとしてみれば、どちらをやっても批判される状況にあったわけです。
次に、世論調査による「政権批判」と「政策批判」との関連です。読売新聞は「3.11」の震災が起きた後、世論調査は約1週間程度をかけて行われますが、3月下旬には世論調査を実施しています。その調査項目を見ると、「菅首相に指導力があるかどうか」「菅首相にいつまで首相を続けてほしいか」というものでした。その後、朝日新聞は「大震災への対応は適切かどうか」「原発事故をめぐる対応は適切かどうか」を聞いています。読売新聞も他の新聞も同様なことを聞いています。
あの時、原発事故の現場では「水素爆発が起きたのかどうか」とか「メルトダウンはどうだったのか」といった問題があり、暫らくしてから冷却水を浴びせ、放射能を含む水を再び冷却水に使用するなど、ようやく落ち着いた段階で、破壊した建屋の中はどうなっているのかということが少しずつ判明してきたわけです。確かに、パニックを起こさないために、東電とか政府が一部の情報を隠したかもしれない。しかし、現実問題として、当時、記者は現場に入れなかった。とすると、何が事実かどうかということは全く分かりません。東電と経産省と原子力安全保安院の発表に依存するしかない。そういう情報を流しておきながら、原発事故の対応は適切かどうかと聞くことは、ましてや原子力に関する知識が全く無い私に問われても答えようがありません。菅政権の対応が適切であったかどうか、それは歴史が判断することで、少なくとも、1ケ月程度のスパンで分かるわけがありません。しかし、そういうことを急いで評価をしてもらって世論のあり様を見定めたいというのが、新聞社やテレビ局などが行った世論調査なのです。
日本には世論調査の専門会社があまり多くなく、どうしてもマスコミが世論調査の担い手になります。あるいは政府が行う世論調査があります。マスコミの調査と言うのはある意味分かりやすい。自分達で調査をして、その結果を自分達の紙面に掲載するからです。調査の設計者の意図はどこにあるのか、世論調査はある時点での人々の意見あるいは分布を探り当てようとします。しかし、意見の分布は短期間に流動化し変化します。専門知識や情報を持たない人びとが、その時の不安や喜び、テレビが伝える画像などを通して、すなわち曖昧であやふやな状況下で調査に答えざるを得ないのです。ここから、世論を形成するのは誰かという問題が出てきます。
マスコミは世論調査結果が出ると、それを参考にして、また同じような世論調査をします。そして、次第に世論は先鋭化します。支持率を見れば、よほどの劇的なことが無い限り落ち続けます。菅さんは地味だが良い政策を打ち出したということが、報道されたとしても、それによって支持率が上向きになることはまずない。それよりも、菅さんがどこかに行って、一緒に涙を流し、肩を叩いて何とかしますというパーフォーマンスをした方が支持率は上がるのです。菅さんはその部分でも十分な成果をあげられなかった。どうしても、皇室や皇族と比較されてしまいます。政策の面でたとえ大きな転換を行っても、それが実効性に結び付くのは何10年も先のことになります。はたして、こうした政策が世論調査結果と結び付くのかというと、なかなか結び付きません。支持率を上げるためには、泣いたり、叫んだり、何処かでパーフォーマンスをして上げざるを得ないのです。
これが世論政治、世論調査の怖いところです。10兆円とも言われている財源調達、野田さんはうまくやったな! あまり野田さんを支持していない人も、意外に野田さんやったな! と言って、支持に転ずるのか、支持率は上がるのか、どうでしょうか。あまりそういうことは起きないのではないかと思います。そうではなくて、朝霞住宅に行き、公務員宿舎の建設を中断する。結果的に、膨大な保証金を支払うことになるにしても、こうしたパーフォーマンスが必要なのです。例えば「ドジョウ」だといって「ドジョウ」を食べていればよい。そうすると、支持率が上がります。分かり易い首相だということになります。
特に菅さんの場合、政局報道に傾きがちであった。野田さんが党首選挙に出るとか、鳩山さんが何を話したとか、小沢さんがどう出るかとか、この半年間はこのようなことが紙面を飾ってきました。小沢さんは裁判で話題になっていますが、ではこのような政局報道は私達読者が嫌いなのかというと嫌いではない。もっと言うと、多分好きなのではないか、だが、好きで面白がっている一方で、これだけでは困るという意識は強く持っています。実は政治部の記者達とお話しする機会がありますが、同じ気持のようです。政策と政局を連動させて考えたいと思っています。
しかし、パーフォーマンスを含め、政局の方がやはり面白い。皆さんの中には会社勤めの方もいらっしゃると思いますが、会社の社長人事や重役人事、直属の部長人事などは関心が強いと思います。しかし、会社の外の人はどうでしょうか。全く関心がない。組織とはそういうものです。私も自慢するわけではないが、一流企業や大企業の社長さんの名前はほとんど知らない。ところが、慶應義塾の清家塾長はすぐにわかります。しかし、他の大学の学長の名前はほとんど知らない。組織とはそのようなものです。政治部の新聞記者にとって、毎日の取材相手が政治家であり官僚です。番記者達は政治家にずっと張り付いています。そうなると、自分の会社の社長は次に誰がなると同じ感覚で、政局が非常に面白くなってしまいます。ましてや日本を代表する首相が誰になるという問題ですから、余計に面白い。
それでは、マスコミはなぜ同じようなことばかり報道しているのか、もう一度考えてみましょう。例えば、次の社長は誰になるかという問題は、2時間でも3時間でも居酒屋で話し続けます。それと同じ感覚だと思って頂きたい。言ってみれば、メディアと政治家の距離と国民とメディアの距離を比べたら、メディアと政治家の距離は遥かに近いわけです。特に、政治部の記者は政治家の話となると無我夢中で喋ります。公式の場では言えないことも次々と話します。しかし、政策のことになると難しいとか言ってすましている。政治部の記者が政策に関心がないかというと、必ずしもそうではありません。かなりの勉強をしている人もいます。しかし、出でくる情報は政局に傾いてしまいます。
どうしてそうなるのか、政治家達は何故に権力闘争に明け暮れるのか。政治家の側から見た「政策」と「政局」、これは当然のこと、自分がその地位に就けば、日本はもっと良くなると思っている人が大部分です。自分がこの職に就けば、こういう政策を実行したいし実行できる。もちろん総理大臣、3日でもいいから総理大臣になりたい人は多い。けれども、自分がやらなければ、この政策は動かない。動かしてみせるという気持があるのも事実です。自分がなれば官僚も使いこなせる。
政治は権力の争奪、私達から見れば、誰が大臣になっても同じ、総理大臣も昔からころころ代わります。政治家の発想は、いま緊急を要する問題はこれで、自分がなればこの問題は解決できるというものです。政局の勝者であり、政策を実行することで、自分は政治家としての使命を全うできる、という極めて素朴な発想が政治家にはあります。ところが、有権者はそうは見ません。今のように、自民党と民社党の二大政党に近づきつつあり、政策が似通ってくると、どちらが政権をとっても、大きな違いは出てきません。今回のような、未曾有の大震災の中、復興のための財源を何処からか引き出すかについて、若干の違いがあります。しかし、日本社会がやるべき課題はほぼ決まっている。そうなると、余計に権力闘争に明け暮れるし、権力闘争のパーフォーマンスが面白くなります。
その一方で、政策は権力闘争についてくる。私達は政策はほぼ同じだと思っていても、政治家や政党は違う政策を打ち出すのだという気概を持っています。それか上手く行くかどうかは全く別の問題ですが、そのような意図はあります。ですから、鳩山さんのように沖縄問題の迷走が生じる。準備不足はあったが、米軍基地を辺野古に持っていかなくとも、何とかなるのではないか、と自分自身を暗示に掛けて思い込んでしまったのではないかと思います。日米関係をうまく処理しながら、沖縄の基地を県外に出せる。最初は出すべきだ、出さなくてはならない、出せるだろう、出せるのではないか、となってしまったわけです。鳩山さんは自分なら解決できると考え、沖縄基地問題の解決を重要な政策として掲げ、結果は皆さんがご存知のように大失敗に終わったのです。
私達の認識と、プロ集団であるメディアと政治家や官僚達との認識に、それぞれのギャップがある。例えば、なぜ同じ人ばかりが役職に就けられるのだろうかという問題について考えてみましょう。自民党でも民主党でも議員は多いけれども、民主党は衆議院に約300人、参議院も含むと400人以上の国会議員がいる。その一人一人全員を総理大臣は掌握することはできない。私などはゼミ25人、未だに全員の名前を覚えられない。そうなると、どうしても今まで親交のある人、あるいは実績のある人、そういう人に頼ってしまいます。これはどの組織でも同じ、会社でも、何でも、大抜擢などは、よほどのことがない限りあり得ません。それと同じ、そういう場面をずっと記者達は見ている。だから、記者達は抜いた、抜かれたといっても、朝日、毎日、読売、日経、産経など、同じライバルとの競争になります。取材相手は政治家と官僚で、有権者とはかなり離れたところにいます。
記者は「原子力村」といって批判していますが、そこにはある種の社会が出来ています。その村を、社会を私達もそう簡単に批判することはできません。何故なら、私達も組織の一員としては、組織の「村社会」の中で夢中になっています。もちろん、政治家や官僚やメディアは公の度合いが高い。だから、私達と違う。社会的責任を持って、それだけの狭い人脈だけで決めるのを止めるべきだという主張はもっともです。でも、実際に日々活動する時、どういうことに直面するかといったら、限られた範囲の人脈の中で情報を得て、その中で、自分の立場を認識し、政策を進めざるを得ないわけです。もちろん、この現状が良いとは言えませんが、今の日本の政治の仕組み、枠組みは、その中で活動するようにできています。政治家も官僚組織もそうです。よく、国益が無くて、省益があると言われ、省益が無くて、各局の利益があり、局の利益が無くて、課の利益があるというような批判を耳にします。そのようにして、処世術を身に付けていくのです。しかし、皆さんだって、組織の中で動く時には、そうせざるを得ない。公の度合いが高く、それだけの地位や報酬を貰っているのだから、その責任と自覚を持って政治を行うべきだという議論は全うで正しいと思います。しかし、メディアが政策よりも政局を重点的に報道してしまうということ、私達もそのような報道を面白がって見てしまうということがありますが、他方においては、私達の日常生活をそのままそちらに移し替えてみれば、そうした政治家や官僚、そして記者たちの思考や行動は比較的理解しやすくなります。
私達は、どうしても、昔のテレビドラマの事件記者のイメージがあり、新聞記者が背広を上に引っ掛けて、飛び出し、警察とは違う情報を引き出し、社会の正義のために悪に立ち向かうというイメージがあります。確かに、そのような優れたジャーナリストはいますが、そうした優れたジャーナリストは数が少ないから評価される。そういう数少ない記者がある種の歴史に残る仕事をするのです。記者達を別世界の人とは思わないで頂きたいと思います。官僚も政治家達も、私達の思考形態と生活様式に、移し替えて見て下さい。確かに、政治エリート達も同じ人間であり、私たちとそう違わない気持ちをもって日々過しています。もちろん、注目の度合いに違いはあるが、共通部分に注目してみると、いまの政策と政局の場面は、かなり理解できるのではないかと思います。
4.結び
最後に、世論について少しお話しします。世論、パブリック・オピニオン、英語のパブリックは非常に良い言葉です。日本語の市民にあたります。しかし、「民意や国民感情の流動性・・」を考えると、パブリック・オピニオンではなく、マス・オピニオンではないか。マスは大衆と訳されます。ちなみにマス・コミュニケーションとは、大量の情報を大衆に伝えるということです。マスには、大量と大衆の両方の意味が含まれています。大衆は市民と違って周囲の人と同じことをして、気持が良くなる人のことです。日本社会は「出る杭は打たれる」というように、集団主義の傾向が強く、個性が育たないと言われる。どうやら、そのようなことはない。どの国でも、多数派に属したい人の方が多く、その方が精神的に楽なわけです。なかにはフリーライダーとも呼ばれ、ただ乗りして、利益だけ頂く人もいます。長いモノには巻かれろというのがマスなのです。どの意見が正しいかではなく、多くの人が何を思っているかを知りたがるわけです。
その指標として、世論調査があり、マスコミがあります。したがって、世論調査やマスコミと違うことを話すのは大変です。例えばいま、小沢さんの意見が正しいとは言いづらい。この問題に関しては、なぜ贈収賄で訴えなかったのかなど、いろいろな疑問が湧いてきます。実際、今回の3人の秘書の有罪判決に疑問が多いか、幾つかの新聞も批判しています。皆さんも一杯飲みながら、小沢さんは悪党だけれども、かなりの実行力があるよ。この程度は言えるかと思います。小沢さんはなかなかの良い人で、警察や検察がダメだよ。かなりいい加減なことをしている。有罪だって危ないよと、滔々話した後、もし「あなたは小沢さんが好きだからネ」と言われてとたん、冷たい視線で終わってしまう。それぐらい、今の世論は反小沢に傾いている。
警察や検察の批判はできるが、小沢さんは固定したイメージで見られており、それを突き破るのはかなり困難です。勝ち馬に乗る、長いモノには巻かれろ、これが大衆です。その中で世論は作れます。したがって、パブリック・オピニオン、公衆の意見ではなく、大衆の意見、マス・オピニオンが世論ちいうことになります。とすると、世論という言葉を使わないで、民意とか、国民感情で良いのではないか、このことは政治家やメディアが一緒に混在して使用しています。民意に問え、国民感情を大切にしろというわけです。感情は動くもの、ある日、好き好きと言って置きながら、次の日は喧嘩をして別れてしまう。これが感情です。しかし、それだけで政治が動いては困る。政策は合理的に判断する。そう考えると、果たして、世論をどう考えるべきか、重大な問題を抱えながらメディアと接触しなければならないと思います。
いまの問題と関連しますが「政策報道と政局報道」という問題は民主主義と関連します。いまマスの話をしたが、それは大衆民主主義の問題になります。民主主義の根幹には3つの要素があります。まず1つは「選挙」です。選挙はどれほど批判されたとしても、これが無くなると民主主義ではなくなる。もう1つが集団民主主義、これは私達一人一人では何もできないので、集団で何かをする民主主義です。代表的なものに労働組合、それを通じて選挙活動も行われます。日本経団連、これは財界の組織、こういう団体を通じて政治と関わることになります。さらにもう1つは、既存の団体が強くなりすぎると、官僚的な発想が生まれ、指導者・被指導者が生じます。そして、皆の声を集約するより、一部の幹部が好き勝手に決めるようになります。それならば、ある問題が起きた時、皆が集まって、問題が解決したら解散する。これは参加民主主義とか運動民主主義と呼ばれています。ここでいう民主主義の第三の型です。これは実は日本ではなかなか普及しません。運動とか、参加というと、何でそんな過激なことをするのか、心配だと言われてしまいます。しかし、民主主義にとっては非常に重要な形態です。
大衆はその中でどこに位置するのか、どの場面においても傍観者になる傾向が高いと思います。見ているだけ、土俵に上がらない。選挙には時々行くかもしれないが、この政治参加のコストやリスクは少ない。集団の中では皆の意見に従う、運動には参加しない、いらいらするような民主主義が大衆民主主義です。では、民主主義はダメなのか、そんなことはない。大衆民主主義が現状であることを引き受け、メディアを活用しながら、あるいはネットを含め、少しでも自分達の意見がどう政治に届いて行くのかを考え、専門家であるジャーナリスト達がどう関わるのかについて考えていくべきでしょう。大衆民主主義という現状に批判はしながらも、この民主主義を維持していかなければならない。これが日本を始めとした民主主義社会の現状だと思います。理想は高く持たなければならないが、現状は悪くてもいまの制度や仕組みをすべて無くしてしまえばよいかというと、そうではありません。制度や仕組みの運用をもう少し工夫する。その際、ジャーナリズムに何ができるのか、私達が様々なコミュニケーションのツールを使って、民主主義の活性化をどう進めるべきかを考えなければなりません。これが現代社会の重要な課題です。ご清聴ありがとうございました。
(質疑応答)
- 質疑:
- メディアは法律によって、特定の政党とか、外国の株式取得が一定限度を超えてはならないとか、中立性に関する綱領があると思うが、それに関してご教授を頂きたい。
外国の場合、例えば、ニューヨークタイムズは民主党を全面支援しているような兆候がありますが、それら関してもご教授を下さい。
- 応答:
- 私の知っている限りでの答えになりますが、後者の方から答えますと、ニューヨークタイムズとか、ロサンゼルスタイムズとか、ワシントンポストですね! イギリスのガーディアン、フランスにルモンドなども有力な新聞がある。これらの新聞は大統領選挙などの場合、色を鮮明にすることがある。何故できるか、それは読者が少ないからです。日本の場合は、いろいろな意味で、ほんとうのマスばかりです。それが良いか悪いかとなると、良い面もあれば、悪い面もある。悪い面は、皆が横並びで、言葉で言うと、世間を騒がせたという世間、まとまりの良さが強調されます。欧米の諸国は、大学でも、新聞でも、格差がある。ニューヨークタイムズの読者は、社会的にも、経済的にも、かなり階層の高い人たちです。だから、日曜日の分厚い新聞をコーヒーでも飲みながら、楽しそうに読める人達と、そうではなくて、大衆紙、日本で言えば「日刊ゲンダイ」「東京スポーツ」のような新聞を読む人達と違うわけです。私達はどうか、朝は「朝日新聞」を読み、帰りには「日刊ゲンダイ」を極めて自然に読む。ニューヨークタイムズを読む人は大衆紙を読むか、というと読まない。そういう社会では、党派性を明確に出して、それなりの議論ができる。日本の場合、発行部数が落ち込んだとはいえ、まだ数百万部ある。読売が1千万部を切ったかどうかである。1千万部は3人家族ならば3千万の人が読んでいることになります。この影響力を考えたら、党派性を強くすることができません。それでも、産経と読売が原発再稼動。朝日と毎日は脱原発主義が明確になってきました。思っているほど日本の新聞は同じではない。憲法についても、改憲の読売新聞と護憲の朝日新聞があります。
前者の質問の様々な規制については、確かにまだ存在します。放送法では多くの意見があればできるだけ多くの意見を放送しなさいという条項がある。これは実際にはできない。これは努力目標でよい。私達があからさまに放送法違反をしているというメッセージを出さなければ、努力目標でよいという緩やかな判断をして、いわゆる言論の自由と規制とを両立させています。
- 質疑:
- 講演の後半で、民主主義の定義とか、大衆は傍観者であるとか、現状は批判をしながらもメディアを介して見つめていかなければならない。市民なのか、大衆なのか、よく分かりませんが、行き過ぎた報道もある。一方では、報道の自由というものがありますが、そのバランスはどういうバランスがよいのかどうか、そのことをお聞きしたい。前段では、ネット世論とか、世論調査だとか、いろいろなことが出ましたが、そういうことだけで、市民や大衆を誘導したりするのであれば、極端には、政治家もいらないというようなことになるような感じもする。国民主権の原理は分からないわけではない。いまの状況では、足を引っ張って、いろいろなこともやれないという状況にある。その辺りのバランスをどのように考えるかをお聞きしたい。
- 応答:
- 総理大臣が1年でころころ変わる。思うように政策ができない。一番の原因はメディアではないと思います。一番の原因は今の政治制度です。参議院が非常に強い。選挙があると、新聞は有権者が絶妙なバランス感覚になると言って、自民党を勝たせた次に民主党、民主党を勝たせた次に自民党、と言って評価します。それをバランス感覚などと言いますが、それが政策を停滞させ、総理を窮地に追い込んでいます。確かにメディアは足を引っ張っている。しかし、小選挙区制あるいはそれから派生した様々な課題が馴染み、参議院の強さが変わらない限り、参議院制を強くしたまま、小選挙区制を導入したことで、中選挙区制が良いとは言わないが、今の選挙区制では短命政権あるいはかつてのような積極的なアドバルーン政策を打上げて、それを国家目標のように実行しようとしてしまいます。それで政策が実行しづらくなった。メディアも自覚しているが、より刺激を求め、エスカレートしてしまう。私達も同じで、いつも同じことが坦々と続き、それがどんなに関心があろうとも、一定期間を過ぎると関心が低下します。関心をつなぎ止めるために、どうしてもセンセーショナルな感情に訴えるようになる。最後の結論で、私は大衆民主主義をそのまま是認している訳ではない。しかし、この民主主義制度を否定して、他に代わる制度があるかというと無いわけです。民主主義は守るべき制度である。そのために、考えていることは、政治家も勿論ですが、ジャーナリストの資質の問題です。いま新聞社が部数の落ち込みで、将来的に経営危機に陥るかもしれない。逆にチャンスかもしれない。合理的ペーパーとも言うが、今の新聞が大衆紙ではなく、より多くの世論を作り上げるような言論機関に変貌していくチャンスなのかもしれない。その面で言えば、それに耐え得るジャーナリストを育成するということが大学の重要な使命であるが、大衆民主主義を制度的に認めつつ、より充実したジャーナリストの育成を考えて行くべきだと思います。
- 質疑:
- 報道の真実性ということに対して、如何にお考えでしょうか。自宅近くで事件があったのですが、新聞社毎に報道する内容が異なっていた。私達は新聞やテレビで状況を把握しているが、その事実はほんとうなのか、というのが私達には分からない。疑問に思う場合に、他の報道機関の情報を入手して、調べたりするが、その点はどのようにお考えでしょうか。
- 応答:
- 報道の真実性はない。それを求めてはいけないと思います。人間コミュニケーションには真実はありません。ここでの話しも、皆さんが家に帰れば、ひどい話だという人もいれば、感動したという人もいる。どちらが事実か、真実か、人間コミュニケーションとはそういうもので、人によっては、どこに焦点を置くかで、全く変わってしまいます。とは言え、意識的な捏造はいけない。ないことをあるように報道し、数字をわざと間違えるのは論外です。しかし、一生懸命に取材したとしても、違う報道になることは当然にある。逆に心配なのは、記者クラブや警察発表を鵜呑みにして、どの新聞も同じ報道になることです。違う報道でも良い。真実を期待してはならない。事実でよいというわけです。
- 質疑:
- 今から115年前の1896年、福澤先生がお元気の頃、三陸沖で大津波が起きた。この時、福澤先生は3つのことを言っている。1つは悲惨なことが起きた。大津波が起きている。政府は全面的に支援すべきである。2つ目、我々皆で義援金を出そう。3つ目、これが今日のテーマ、情緒的な報道ではなく、科学的な報道、つまり、地震とか、津波の科学的なメカニズムを追及し、再発防止を考えるべきである。これを言ったのは、当時、時事新報しかなかった。福澤先生しかいなかった。これは大変に重要なことで、今日のお話に属している。政局報道だけではなくて、政策報道をメディアでぜひとも行って欲しい。政治家が劣化しているので、メディアも劣化しているというのが、今日の話しであったと思う。福澤先生のお言葉について、先生のコメントを一言だけ頂ければと思う。
- 応答:
- 私もそのことを三田評論等で知り、大変に感銘を受けた。今回の震災については、息の長い対応が必要で、朝日が原発とメディアを掲載し、NHKも繰り返しドキュメントで報道しています。あの姿を見ると、日本のジャーナリストも捨てたものではない。これだけ志の高いジャーナリストが多くいれば、私達がこれらの報道をしっかりと見て、報道に高い評価を与える。それがいま言われたような、科学的なあるいは政策的な報道に発展させる道だと思います。
(文責:高橋豊)
|
|
|
|