● 場 所 静岡県教育会館・4階大会議室 講師:黒澤 脩様(郷土史家・元静岡県立大学非常勤講師) はじめに ただいまご紹介を頂きました黒澤と申します。私は長いこと、静岡市教育委員会に勤めておりました。現在、退職して5年を経過しております。さて本日、皆さんにお話しする駿府、つまり静岡の大御所時代の内容は世界的にも国内的にも大変なエポックを形成した時代であったことを、特にパワーポイントを通じて1時間程度お話をさせて戴きたいと思っています。 このタイトルの内容は、静岡の人も全国の方々もあまり知らないお話です。静岡市役所在職中、私は駿府城の天守閣調査を市長の特命で5年間ほど「静岡市駿府城天守閣調査主席調査員」として担当してまいりました。国内や国外、およそ500個所を調べてまいりましたが、東京大学の大学院教授ロナルド・トビ先生から、「静岡(駿府)という所は大変な所だ」ということを何度も聞きました。それ以来、静岡のことを中心に、調べて今日に至っております。 現在、静岡の駿府城には天守閣はありませんが、この城は江戸城でもなく、名古屋城でもなく、京都の二条城でもなく、この駿府城こそが日本の中心になった城で在り、徳川家康の駿府大御所政治として江戸の二代将軍秀忠に代わって行われた政治の舞台であったことはあまり知られておりません。ところが海外の研究者は、江戸でもなく徳川家康の駿府大御所時代に注目していたのは、ここが大航海時代の日本の中心だったからであります。
大航海時代の日本の中心は駿府だった 大航海時代の幕を切って下ろしたコロンブスも、実はジパング(日本)を目指していました。このことを背景として、駿府大御所時代を皆様に今日はご紹介したいと思います。そしてジパングの首都、それは駿府であったことが御理解いただけると思います。 コロンブスがアメリカ大陸に到達してから、50年後に徳川家康は三河で誕生しています。さらにそれから50年後には、家康周辺と日本の価値観は大きく変質した時代に突入します。国中は多くの外国人の来日によって、日本は大きく変わってきます。決定的な出来事は、徳川家康が、駿府を大御所の地として静岡つまり駿府に来てからであります。駿府に来た家康は、65歳でしたが2代将軍秀忠にすべてを譲ってきたかに見えますが、実際は駿府を中心に、江戸幕府の政権を駿府で動かしていたのです。これを駿府大御所政治といいます。 この大切な時代ですが、世界的にみると徳川家康のこの時代の研究は国内の研究者の間では非常に遅れています。特に日本人の学者は、徳川家康のことを真剣に研究していない。また、基本的な文献を使用していないと指摘するのは外国人研究者の弁で在ります。このことは後でお話しします。特に、大航海時代という世界的規模で人々が行動した時代の中で、その終着点が駿府であり、駿府はジパングの首都でもあり、ジパングの王様が徳川家康ということになります。ここで大航海時代を少し振返ってみます。
いまリスボンの港には、大航海時代のモニュメントがあり、これは大航海時代を象徴する世界的シンボルとなっています。こうして地球上の地理的視野の拡大が行われると、デマルカシオンと呼ばれ、地球上をスペインとポルトガルで独占的に半分ずつにしてしまう。つまりポルトガル人はアフリカ南端を経由してインド洋へ、スペイン人は大西洋を横断してアメリカへと進路を進めました。その地球の裏側、そこがフィリピンであり日本であったのです。両国はこの地域を巡ってやがて対立の構図へと発展します。 デマルカシオンはトルデリャス条約(1494年締結)と呼ばれて、両国の対立を避けるためコーマ教皇アレクサンデル6世の裁定によって新領土の分割方法が決められました。その裏側の日本で、両国の対立は駿府大御所時代に勃発します。 さて、コロンブスのアメリカ大陸発見以来、大航海者たちはみな日本つまりジパングを目指しました。何故かというと、マルコポーロが『東方見聞録』を書いて、ジパングという黄金の国(エル・ドラード)があると紹介したのが全ての発端です。それから大航海時代が始まりますが、その原点は中尊寺の金色堂(世界遺産)のことを聞いていたからと思われます。 当時の大航海時代を象徴する建造物は、世界の要所に存在します。例えば、リスボンの港、ロンドン、マドリッドの王宮やローマのジェス教会、ポルトガルのジェロニモス修道院、それに日本では駿府城が世界から注目されておりました。人口規模で申しますと、当時のロンドンの人口は駿府とほぼ同じ12万人と云われています。因みに当時の京都は、30万人と言われていますから世界最大の都市であった可能性があります。 そんな日本の都市は、江戸も駿府も大坂も大きく、かつ清潔な都市であったことは外国人が立証しています。リスボンのジェロニモス修道院は、大航海時代の富をつぎ込んで建築され、イエズス会の本部として大航海時代の引き金となった教団でもあり、キリスト教の海外布教はこの教会から始まります。 さらに貿易も実施していたイエズス会宣教師たちは、海外の富をヨーロッパに運び込み、世界の富を独占しようと試みますが、徳川家康は日本国内の良質な金銀が集積し、「駿府ゴールドラッシュ」を築いていたことが金沢大学の北条文庫の古文書に登場します。更に家康は、武器の生産を蜂須賀や大友、それに芝辻らに命じて世界一の富みと重火器を用意していたと述べているのが日本にはじめて来たウイリアム・アダムズの証言です。 つまり駿府大御所の徳川家康は、世界一の富みと世界一の鉄砲を保有していたといわれています。ちなみに鉄砲の保有量については、家康は30万丁を越えて世界一と云われています。 さて、話しが前後しましたが、マゼラン海峡を通過して来日した最初のイギリス人ウイリアム・アダムズやスペイン人たちに言及したいと思います。大御所時代の駿府でいろいろなことが起こっていました。これらのことは、日本の歴史の本ではほとんど登場しない大切な事柄が、海外の文献によって明らかになっております。例えば、駿府で活躍した外国人を取り上げても大勢登場します。例えばジョアン・ロドリゲス(ポルトガル)、ルイス・ソテロ(スペイン)、ジョン・セリーヌ(イギリス)、リチャード・コックス(イギリス)、クワケルナルケ(オランダ)、ジャックス・ペック(オランダ)、アロンソ・ムーニョ(スペイン)、セバスチャン・ピスカイノ(スペイン)などがいました。 特にジョアン・ロドリゲスは15歳で来日し、論語も一生懸命に勉強し、家康とも深く関わった大変な人物でした。彼は日本のティーセレモニー(茶道)や日本の礼儀作法や躾をヨーロッパに紹介した人物です。それが現在では、ヨーロッパでのテイータイムに発展し、また紳士淑女であることを広めたことが報告されています。つまり日本の良い習慣やマナーをヨーロッパにもたらしたまさにクールジャパン(日本独自の文化が海外で評価を受けている現象)の原点は駿府にその多くを見出すことが出来るのです。 時計が語る大航海時代 いま大航海時代の出来ごとの一つとして、全国で話題になっていることがあります。それは国宝である久能山東照宮に保管されている洋時計です。この時計は大航海時代の申し子であり、途方もない歴史がこの時計とその背後の歴史に隠されています。掻い摘んでお話ししますと、房総半島沿岸で遭難し救助されたスペイン人の高官(ドン・ロドリゴ・フィリピン臨時総督)と乗組員を、家康は手厚くもてなし、ウイリアム・アダムズ造船の船で、メキシコのアカプルコへ彼らを無事に送り届けた快挙があります。 この事実がスペイン国王に報告されると、国王はセバスチャン・ピスカイノ(スペイン海軍総督)をお礼の大使として駿府に派遣し、問題のこの時計がスペイン国王から徳川家康に献上されます。最近、大英博物館の研究員がこの時計を鑑定した結果、これは16世紀の技術で作られた世界最高傑作のゼンマイ式西洋時計であることを立証し大きく報道されました。 この時計の背後に隠された歴史や文化は、長い航路(大西洋→メキシコ大陸→太平洋)を越えて日本の大御所徳川家康に献上されたモノということになります。この時計こそ、大航海時代を証明するモノの世界遺産であると評価されました。久能山東照宮では、この時計を国宝に申請し、更にユネスコに申請し「モノの文化遺産」にしようと今、その活動が動きはじめています。このことは最近テレビの全国放送で流れ、知っている方も多いのではと思います。 この時、セバスチャン・ピスカイノは、マドリッドからメキシコを経由して、しかも本来ならフィリピン経由で貿易風を捕えて日本に回って来る航路が当時の常識でした。ところが彼は、太平洋をアカプルコから直接日本に乗り込んで来ました。当時のスペイン人の高度な航海技術を証明しています。そして駿府城で家康と会見し、ハンス・デ・エバロ制作のこの時計を献上しました。贈ったのはスペイン国王フェリーペ三世です。これらの出来ごとの顛末は、セバスチャン・ピスカイノがスペイン国王に復命した報告書『金銀島探検報告』に詳しく記されていますので御覧下さい。雄山閣出版の異国叢書に所収されております。 ヨーロッパから国王使節駿府へ 確かにスペイン国王は時計を家康に贈ったが、実はスペイン人も裏では日本を研究し、あわよくば日本を植民地にしようという腹があったことがこの報告書で窺う事ができるのです。家康は家康で、スペイン人の高度な技術を反対給付として求めていたことも知られるところであります。しかしスペイン人の行動に警戒するよう家康に言上した人物、それがウイリアム・アダムズでした。スペイン人の野望は、アダムズに見破られていたのです。こうしたことは、日本では全く語られていませんが、最近になってイギリスの数人の研究者が出版した本に記されております。その一つを御紹介すると、『日本に来た最初のイギリス人』の著者P.Gロジャーズ氏で日本語に訳された分かり易い待望の書物となっております。駿府のことについては、かなりの紙数を費やしております。 またこの裏側でのスペインの状況を記した本、それがスペイン人パステルによって著された『16-17世紀 日本スペイン交渉史』であり、両者を比較すると鮮明に読みとれます。これらのことを記述した当時の古記録も、その幾つかが、大英博物館や大英図書館に保管されております。また時計を家康に贈り届けたセバスチャンも、彼の著書では駿府城のことなども記述しています。それによると、駿府城は規模は小さい城だが世界で最も綺麗なお城であり、関係者がこの城を厳重に警護していた様子、それに駿府の町はメキシコのソカロ広場(メキシコシティー)の町よりも大きいことなどが書かれています。 やがて、オランダやイギリスの人たちが家康の傍で通訳として活躍すると、家康はより鮮明に世界情勢を正確に理解して行きます。当時、ヨーロッパはポルトガルやスペインの旧教国とオランダやイギリスの新教国とが紛争中であることや、彼らに領土的野心が在ったことを知り、家康はポルトガルやスペインよりも新しいオランダやイギリスを中心とした外交へとシフトして行きます。 そんな頃、オランダ国王使節が駿府にやって来ます。オランダ船の乗組員の一人ジャックス・ペックは、ウイリアム・アダムズと一緒にリーフデ号で来日した人物です。彼は日本語を覚えて帰国を許されました。その彼が、今度は日本の状態をオランダ国王に話すと、国王はニコラース・ポイクを団長として日本に使節を派遣して来ました。この時、ジャックス・ペックは、オランダから駿府までの記録を『駿府旅行記』として書き綴り旧友アダムズと再会したことにも触れています。この本は、ドイツのカールスルーエ図書館で発見され、東京大学史料編纂所の紀要で報告されているだけで、その内容が広く世に出ていない現状です。非常に残念です。 また私の駿府城天守調査では、オックスフォード大学で閲覧した史料から、駿府には武士の教会や庶民の教会があったとことを記述された史料があることも通訳を通じて情報を入手しました。その後、アダムズがイギリス本国に送った手紙を見て、イギリス国王は駿府にイギリス使節を派遣しました。その使節も駿府城下町のことを詳細に書いています。興味ある点は、駿府の町がこの時代に既に公害を意識した画期的都市計画であったことを著者ジョンセーリスが見聞し、それを記述しています。 家康がイギリス人と会見している様子は、ダルトンが描いた挿絵などもあります。それによると、アダムズは座って会見して欲しいとイギリス使節に要請するが、イギリス人は自分たちにはそのような習慣はないといって断るのです。そこで、結局、落語の高座のような台に家康が座り、アダムズが通訳している興味あるイラストです。 アダムズ、大御所家康に情報提供 徳川家康が駿府からオランダに送った国書は、現在ハーグ国立文書館に保存されオランダの国宝になっております。静岡にある駿府夢広場には、徳川家康ミュージアムがあり、家康の精巧な蝋人形を飾っております。これは余談ですが、この人形はアダムズが金地院崇伝に、地球は丸いことを説明している人形です。といったら崇伝は、それでは地球の裏側にいる人は下に落ちてしまうのではという会話をしております。そこでアダムズは、「そんなことはない、地球上はどこにいても天があり地がある」と答えております。 この頃、世界には大変な科学者や文学者が輩出しています。例えば、ダ・ヴィンチ、コペルニクス、ガリレオ、ケプラー、文学者ではシェイクスピアやセルバンテスです。家康は、造船・航海術・数学・物理・気象学・宇宙論(地球の形や天体の運行、月の満ち欠け)・幾何学など、65歳にして学び、多くを理解していたといわれています。 実は日本に最初に来たアダムスは、ジョナサン・スウィフトの『ガリバーの旅行記』の中で、唯一実在の人物として登場しています。極東の日本で活躍していたアダムスは、イギリスでも大変有名だったのです。このこともあまり知られていませんが、これらを世に出したのはNHKの教育番組でした。 そんなウイリアム・アダムズは、イギリスが日本と交易するには新たな航路が必要だと家康に進言しています。スペインやポルトガルと同じ航路では戦争が起こる。このため当時、北海道の概念はなく、アリューシャン列島もあるが、そこに陸地がなく、北方航路(アンジェリスの地図として有名)があると考えられていたのです。そこでアダムズの測量した日本地図がオランダ(地図)にあり、アダムズが測量したことが記載されておりますが、これも日本ではまだ紹介されていません。伊能忠敬が日本地図を作る前、にこれだけの日本地図がアダムズによって作成されていたのです。 少し遅れて伊達正宗は、慶長の遣欧使節をヨーロッパに派遣します。そこで家康は、伊達正宗に協力してアダムズと家康の海軍に関わっていた向井将監を造船に協力させています。向井将監の墓は、清水区の清見寺にお墓があります。支倉常長は、こうして完成した船でローマに向かいます。支倉の乗った船(ビスカイノもこの船で帰国)は、アカプルコに無事に到着します。その船はサンファンデバプティスタ(洗礼の意味)とスペイン語の名前が付けられましたが日本名は不明です。幸い船の形が絵に残されていたことから、宮城県慶長使節船ミュージアム(サン・ファン館)では、16億円の巨費を投じて再現されました。ところが今度の東日本の震災では、マストその他を破損したため現在修理しております。宮城県石巻市渡波大森にあります。 (すんぷ夢ひろば提供) アダムズ、北方航路発見のため探検隊を派遣か? アダムズは「北方地域に謎の空間があり、その航路をイギリス国王も探している」と言って、世界地図を持ち出して駿府城内で家康に説明しています。アダムズが本国に送った書簡は、現在イギリスに12通ありアダムズも日本近海に金銀島があると信じていた模様でした。だから、いろいろな人が日本を目指して航海して来ましたが、アンジェリスの描いた北方地図によると、直接イギリスに通じる航路があると真剣に考えられていた模様です。事実イギリス国王は、ノルウェーに向けて日本に通じるシールート発見の探検隊も送っていました。勿論、そんな海路は陸地に阻まれて存在しませんが。 話は変わりますが、そんな時に日本に来た外国人たちは駿府城下町を見て、「こんなに綺麗で清潔な町を見たことが無い」とびっくりしているのです。いまの日本はパワーがなく、韓国にも周回遅れの部分が感じられますが、こうした現状の中で、駿府から、大御所時代から、世界に向けて情報発信をしなければいけないと私は考えております。スペイン人に云わせると、日本はキリスト教を信じていないから野蛮な国だとも呼んでいましたが、それ以外はスペインよりも住み易く、ドン・ロドリゴはマドリッドで年金生活するよりも、この国がキリスト教の国なら、この清潔な駿府で年金生活したいと彼の著書の中で記述しています。 このようなメッセージは、もっと日本から発信すべきですが、日本の文化庁は何も調査していないのが残念です。またセバスチャンは、「駿府城は堅固なること巧妙にして・・」と、駿府城の美しさを讃美しています。私が最も刺激を受けた人に、東京大学大学院教授をされていたロナルド・トビ先生(現在イリノイ大学教授)がおります。先生に云わせると、「私たちは世界の家康を知らない」、「私たちは世界の駿府を知らない」と云うのです。 そこで私は、駿府城天守の調査が終わると、国際歴史フォーラムを静岡市で主催し、日本とりわけ駿府を研究している多くの外国人研究者の中から、通訳無しの美しい日本語で語って戴ける方々に参加して貰いました。その時、トビ先生から、ここでも「私たちは、世界の家康を知らない」、「私たちは世界の駿府を知らない」、「その時を告げたのも家康だった」という名言を戴き分科会やシンポジュウムを実施しました。 このシンポジュウムには、私はキリシタン研究の日本の第一人者である慶応義塾大学教授の高瀬弘一郎先生の御参加もお願いしました。
駿府・静岡から大航海時代を見直したい 次に駿府城下町、この城下町は周囲を山で囲まれ、結界のように敵の侵入を防いでいます。奈良の都が七大寺で守られていたように、駿府の地も駿河七観音のご加護を受けた別天地です。その中心が浅間神社で、しかも気候も穏やかな土地、家康は今川の人質時代からここで過ごしたので、大御所の地を駿府と決めたのです。しかも駿府は日本の中心、駿府大御所時代は日本の政治経済の真っただ中であり、そのことすら全く全国どころか市民にも知られていない現状で、誠に残念なことです。 私は新幹線の停車する目立つ位置に、電光掲示板でこのことを表示すべきと考えています。しかもトビ先生のメッセージとして。 皆さんご存知の通り、仁川空港から世界に飛び立つと、世界中の最も良い広告の場所は、今ではハングル文字に代わっています。かっては日本の車の宣伝のスペースが、現在では韓国の現代自動車やサムスン電子に置き換わっているのを御存知ですか。その上、帰って来る言葉は、昔は「今日は、社長、これ買ってよ」とか云って近づいて来たのが、今では「カムスハムニダ」とか「アンニョンハシムニカ」と韓国語で声をかけられるのです。この危機感を日本は何も訴えていない。まだバブルの絶頂期のようなものがチラついているのです。バブルで浮かれている時に、日本は足元をすっかり掬われ、日本のエルピーダが大変な負債を抱えて潰れましたね。サムスン電子は、世界の半導体の世界シェア70%以上を現在は占めているのです。 その上、パナソニックやソニー製品も低調で、一万人余のリストラが計画されており、多くの優秀な日本人技術者がヘッドハンティングされている日本の現状を見ると、もっと日本を世界に訴えなければならないと思うのです。 駿府を上空から見てみましょう。四百年前に家康は新しい堤防を築き、安倍川の流れを変更し藁科川と一体化させ、洪水から守るために薩摩藩によって築堤させた薩摩土手を築きます。この時、アダムズの提案で、安倍川を運河として利用し安倍川左岸にお城を造り、世界のガレーオン船(ガレー船)が天守の真下に停泊できる港を計画していたことが幾つかの資料に記されています。しかし、安倍川の流れが余りに激しいために実現せず、これは幻の川野辺城となってしまいました。アダムズがイギリスの同朋に送った書簡にもこのことが登場します。結果的には、洪水を避けて駿府城は現在地に築かれました。 駿府で咲いた江戸の華 前述しましたが、江戸時代初めに完璧な城下町として登場したのは駿府城下町でした。この頃は、また江戸城下も工事中で、名古屋に至っては城さえ出来ていません。今の名古屋城は、慶長16年(1611)に昔の清州城を移し、堀川を造って整備が始まります。また名古屋は東海道が通っていないため、駿府が江戸と京都の間では一番大きな城下町ということになります。 駿府は、長い戦国時代から抜け出し、これからは平和な日本を想像するシンボルとして出現した城と町ということになります。それをアピールするため、徳川家康は平和な城として駿府城が築城されました。城下には東海道が走り、鉤の手状に屈折しています。これは旅人を攪乱させる目的と、美しい天守をそれぞれの角度(アングル)から見せ場を造った設計となっております。つまり安倍川は、川越人足に背負われ渡ります。そしてようやく駿府に到着した旅人たちは、駿府城の天守が美しく眼前に現れ、富士山が城を包むように登場します。駿府城を美しく見せる最大限の仕掛けを計画的に造った町でした。これを学問的に研究した方が、東京工業大学の桐敷真次郎教授の『慶長・寛永期に於ける駿府城下町の都市的景観』という論文があります。 江戸城下の設計は、駿府と全く逆でシンメトリーに出来ています。特に日本橋付近は、駿府出身者たちが造った町で駿河町と呼ばれ、彼らは故郷の駿府から見た富士山と同様に裏側から見た風景と同じ様式で造り、懐かしい駿府を回想していたと伝えられています。この様に駿府から江戸に移った人が造った町は沢山あります。例えば、前述の駿河町のほか阿部川町・今川町・三組町・内藤新宿・駿河台などこの他多くの町が駿府出身者によって造られました。江戸の銀座、これも駿府から移った職人が拓いた町でした。 外国人の見た駿府城下町 ドン・ロドリゴは、駿府に来た時、道がすべて濡れていることに気付きます。これは駿府用水の水の流れを堰き止め、水を一時的にオーバーフローさせて、夏は涼しく、また埃を防ぐ役目をしているということを見聞しています。当時のロンドンやパリは、石造りの街並みで一見美しく立ち並びます。ところが、人々は家の中にはトイレもなくオマルで生活しておりました。このため、夜になると建物の上から路上に糞尿が撒かれた、街は非常に不潔でした。このためフランスでは、香水が生まれ、また糞尿を避けるためハイヒールが考案されたのです。またルイ14世は、ベルサイユ宮殿に逃げたのも、パリの街中が臭くてたまらないからだと言われております。 ニューヨークのブロードウエイでは、19世紀初めまで、街中に生ゴミが多く、また糞が溢れており、それを掃除するためにブタが放し飼いにされていた様子を示す多くのイラストが残されています。だから、日本に来た人たちは、着飾った人たちが町中を美しく歩くということ、これは正しく強烈なカルチャーショックとして受け止めていたようです。 アメリカ人の見た徳川家康 アメリカにマイケル・アームストロングという文筆家がいます。約35年前、彼は「アメリカ人のみた徳川家康」(日新報道出版部刊)という本を書いています。彼は3人のアメリカ大統領が成し遂げたことを、徳川家康はたった1人で行ったと徳川家康成功の秘密を分析しております。つまりワシントンがUnited State of Americaを作る前、日本では家康がUnited State of Tokugawaを作っていたと云うのです。さらにジェファーソンは、世の中を武器で治めるのではなく、法律で治める法治国家を目指しました、これと同じことを家康はもっと早くやっていたのです。またリンカーンの南北戦争を引き合いにして、家康の関ヶ原の戦いを論じています。この時、もし決着が付いていなければ日本は戦国社会に後戻りであったように、アメリカもこれと同じ意味合いの南北戦争を経験しており、失敗すれば昔のインデアンの時代に戻ると云う訳で在ります。全く同じことを、徳川家康はすでに関ヶ原の戦いで事例を見せたと説いています。 彼はUnited State of Tokugawaをパックス徳川(トクガワーナ)とも呼んでいます。著者マイケルは、徳川家康のこの見事な功績を日本人は真剣に受け取っていない。もっと徳川家康を評価すべきと指摘しております。 もしアメリカ人なら、徳川家康がやったことについて、過去に遡ってノーベル平和賞を申請するでしょうとも書いています。この様に、海外の人たちの捉える家康像は極めて真摯で真面目で真剣でしかも新鮮に受け止めているが、日本は逆にクールであることが心配です。 更に彼は日米の比較をすると、葵の紋章に対してアメリカの星条旗、幕府の法令整備に対してアメリカの独立宣言や合衆国憲法、それに関ヶ原の戦いに対して南北戦争と鋭い分析を加えております。アメリカでは、小・中・高の教室には必ず星条旗が教室の横に置かれ、合衆国の歌を合唱してから学校では授業が始まります。ところが日本は国旗さえも大切にしないで、また世界が評価する徳川家康を狸親爺とこき下ろしているのが平均的日本人の姿です。この考え方は、明治政府が作ったものですが、未だに払拭されない現状です。 また家康の凄さを世に公表した人物にイギリス人ジェームス・クラビルがおり『将軍』を執筆しました。そして山岡宗八の『徳川家康』は、アメリカでベストセラーとなり、続いて韓国・ロシヤ・中国でも読まれたベストセラーです。何故に400年前の徳川家康を世界の経営者たちは、このように話題にするのか? それは400年前のあの時代、徳川家康は経営感覚を持ち、新しい発想で物事を推し進めたということにあります。当時はそのような概念すら無かった時代ですが、家康はその手本を見せていたことになります。我々日本人も、再度徳川家康に学び行動することを実感します。 静岡県知事の川勝平太氏も、オックスフォード大学留学中に実は家康の海外の文献を研究し翻訳していた一人です。御紹介したいのは、『鉄砲を捨てた日本人』(ノエル・ペリン著)など、訳本や著書や論文も多く著しております。 そんな中で、P.C.ロジャーズ著の『日本に来た最初のイギリス人−ウイリアム・アダムズ』は、知られざる日本や駿府のことが沢山書かれております。多くの日本人は、駿府の大御所家康を未だにただここに隠居に来たと捉えている人が圧倒的に多いのです。そんな中、オランダのライデン大学教授のウイレム・ボート博士は、「駿府に家康のための博物館を作るべきだ」と主張されておりました。世界の人々は、このように注目しておるわけでありますが、依然として静岡市は地面の下ばかり見ている現状です。是非、地面の上を研究する優秀な学芸員の登場が求められているのです。 次いでですが、ジャイルズ・ミルトン著の『さむらいウイリアム』も是非紹介したいと思います。日本人は海外の文献をもっと利用し、家康やアダムズのことを本格的に深く研究すべきであります。外国人がもたらした新しい言葉、これは言語の上での置き土産です。例えば、朝鮮通信使が日本に来て「唐辛子」を知り、それを半島に持込みキムチが生まれましたね、今度は日本人が、それを利用して博多明太子に使用していたのが現状です。いろいろ勉強することは沢山ありますね。 東京大学史料編纂所海外特殊資料部についてお話します。実は、駿府大御所時代だけでなく、大航海時代に来日した商人や宣教師の残した多くの文献が、英語やその国の現代の文で翻訳されております。例えば、昔のオランダ語は今のオランダ人が読めない。これは古文書を現代の日本人が読めないのと同じで、それらを当時来日した国々の今の言語で読める状態に東京大学史料編纂所では国費ですべてを翻訳しております。当時、東大に在籍していたトビ先生のお話だと、それを使って研究している大半は外国人であり、日本人の研究者はあまり利用していないとのことでした。 私はトビ先生の支援を得て、全国の大学関係者に通知して静岡で徳川家康国際フォーラムを企画(シンポジュウムや分科会)したことがあります。バブル末期であったため、3千万円の予算を計上して頂きましたが、結果的には1千2百万円でした。残りの1千8百万円は不要額として市に戻しました。行政は与えられた予算を全部使い切らなければ、何か仕事をしていないとか手抜きと見られるのが現状です。またトビ先生の話では、中国の上海博物館には、江戸時代初期の世界地図に日本の首都が駿府になっているということを伺いました。 その他、アラカルト 縁起が良いとされる「一富士二鷹三茄子」、これは家康のお膝元の三保半島でのことを物語っているものです。舞台は三保の松原で知られる折戸が舞台です。家康はこの付近に別荘を二か所所有しておりました。その上、大御所の海軍も三保に配置されていたのです。その茄子ですが、実はこの茄子は家康のために栽培されていたものです。そのことを証明する浮世絵の原画が、奈良県立美術館に残されており、地元で発見された古文書などでこの研究が進んでおります。そんな三保の松原の在る清水湊には、慶長12年(1607年)にポルトガル船が入来港しております。その様子を描いた見事な屏風が、九州国立博物館が「南蛮船駿河湾来航図」として所蔵しております。 家康は江戸初期の政治・経済・文化活動など、あらゆることを駿府で立案し実行しています。経済流通のために、駿河小判を鋳造し、駿府銀座では銀貨が造られていました。こうした貨幣制度確立のために、家康は戦国時代の弊害を取り除き、全国で通用する貨幣を造らせていたのです。本物は、日本銀行金融研究所貨幣博物館にありますので御覧下さい。また秤座は今川時代からの守随に掌握させています。いまでも銀座界隈に守随ビルがあり、江戸の秤座の跡地である京橋にはモニュメントがあります。現在の日本銀行静岡支店、ここは駿府金座があった場所で、両替町二丁目(現一丁目)には駿府銀座が置かれていた場所でした。 また徳川家康は、中世ヨーロッパの三大革命である火薬・羅針盤・印刷技術を基に、鉄砲・大砲、造船技術・航海技術などすべてを駿府でクリヤーしております。時間が在りませんので割愛しますが、江戸の多くの起源を紐解くと、それらの多くが駿府から始まったことに気が付くはずです。東京=江戸は通じますが、静岡=駿府は地元でも通じない節があります。誠に残念でなりません。 歴史、それを正しく後世に伝えたいものです。何故にそうならないのか、一つは高校では日本史が選択科目であり、現在日本史を選択する生徒が激減しております。昔の静岡高校では、日本史の教師が3人いました。それが今では2人になっている現状です。 最近失望することは、著名な国立大学卒業生ですら毛沢東を「けざわひがし」、或は聖一国師を「ひじりいっこくし」なとど読む人すら現れている次第です。これは本当の話です。受験のためなら一生懸命に勉強するが、バックグラウンドが形成されていないのです。また全共闘時代には、多くの大学の教養学部が潰されています。つまり有る政治家が、「日本史は世界史の中で教育すればよいと」いう風潮が起こり、高校生が日本史を選択しなくなってしまった現状があります。 私がお世話になったオックスフォード大学のブラウン教授は、日本の将来を大変心配していました。日本は、鎖国で260年間余り国が閉ざされていたため、ある意味でマヤ、アステカ、オルテカなどの古代文明は失われた。ところが日本の徳川時代は、奇跡的に独自の徳川文明を今でも持っていると述べるのです。そこが日本の魅力と語っていました。にも拘わらず、大航海時代の本家である駿府=静岡市にも静岡県にも、公の施設としての博物館がないのが現状です。全国47都道府県の中で、静岡県と奈良県のみに県立博物館がありません。但し、奈良県はそのものが「屋根のない博物館」であり国立博物館がキチンと機能しています。博物館は、費用対効果で論ずるべきものではないと私は考えております。それは学校と同じです。 徳川家康は活字人間でした。家康は朝鮮木活字を銅活字に鋳造させ、駿府城内に印刷工房を造って書籍を刊行していたのです。家康の先見的姿勢、それは駿府から多くを発信していました。駿府城下町にしても極めてダイナミック、近世最初の町を造り、古いしがらみや過去の伝統や因習に拘らないで実行しています。それが江戸初期の駿府大御所時代でした。
最後に 最後に、天守閣の話をして終わります。静岡市では、駿府城を造りたいという動きはありますが、幾つかの手違いで、いまだに全体のコンセンサスを得るに至っていなません。それでは先ず、史料探しが先決として私は市長の特命により駿府城天守の調査に着手しました。世界の主要な大学や研究機関には、英語・スペイン語・フランス語・ポルトガル語で文書を出し、そこに日本語の文書を付与しました。つまり昔の古文書形式で、「一筆啓申上候御事、陳者今般我市駿府城天守調査有之候、・・(中略)・・頓首敬白」と、市長名で書家に頼み毛筆で、すべて昔の書体で文書を送りました。勿論、約文をつけましたが。これは非常に効果があり、日本でそのようなことをしているのならばと、アメリカでは全米の学芸員の会議で発表され、静岡市の調査に協力したい旨の連絡を頂きました。 多くの史料調査を経てから、駿府城天守は完全に立派な城を復元して建てる可能性がでてきました。駿府の天守は過去二度も火災に遭遇し建替えられております。しかし最後に建てられた天守(1535焼失)の実態、これは調査の結果いろいろと新事実が判明しております。日光東照宮の絵巻、和歌山県の紀州和歌山東照宮の絵巻にも描かれております。絵師は二人とも幕府の御用絵師で在りますが、それぞれ立派な駿府城天守の姿を残しております。 特命調査を担当した私は、駿府城天主の調査に当たり、最初は指図(設計図)や古文書古記録を中心に調査しておりました。ところが、巻物の中に何かヒントがある筈と気が付き、あらゆる機関に絵巻の調査を依頼しました。普段、絵巻は巻いた状態で広げることが少ないのです。そこで趣旨をお話しし、調査をお願いしたところ沢山出て来ました。ところが、期待できるものは少ないのです。 それらの中で、幕府御用絵師の描いた絵は信頼できることが、前述の二人の絵を広げて驚きました。全く同じ天守が描かれているのです。その結果、この絵巻から駿府城がいかに豪華であったかを見つけることができ、中でも狩野探幽が描いた駿府城天守は見事です。そもそも指図とは、それは設計図であり骨組みだけで外観がわりません。レントゲンに例えると、それは骸骨そのものです。ところが絵巻は、そのもののカラーリングも理解でき、加えてディテールも繊細です。更に家康の学導師範の林羅山が文字で記録に残した情報は、この絵柄(巻物の)そのものでした。日光にしても、紀州にしても、オランダ国立民俗学博物館の絵巻にしても共通しているのです。 しかも早稲田大学には、明治初期の駿府城の天守の土台が写真で残されております。貴重な調査をさせて戴いたことに感謝しております。駿府城は世界の人達が称賛した城、是非とも駿府城天守復元も視野に入れ、駿府=静岡から徳川家康の駿府大御所時代と大航海時代を世界に発信したいと考えております。ご清聴、ありがとうございました。 (記録:高橋豊) |
記念講演での講師 |
記念講演での聴講者 | |