● 場 所 TKP仙台カンファレンスセンター3階会議室 遊佐 勘左衛門」様(仙北三田会会長 S44年政治卒) 「㈱ゆさや旅館」代表取締役 講師の遊佐勘左衛門様は鳴子温泉湯元「ゆさや」の館主、「ゆさや」は元祖うなぎの湯とも呼ばれ、創業380年の伝統を誇る宿、木造2階建て純日本建築は国の「登録有形文化財」になっています。館主は代々遊佐勘左衛門を名のり伊達家によって「湯守(ゆもり)」に称せられという歴史を持っています。さらに、講師の遊佐様は、県会議員を3期務められ、現在は宮城県の代表監査委員でもあり、東日本大震災の時、県庁にて被災したとのことです。そこからの体験に基づき、本日の貴重なご講演を頂きました。 こんにちは。過分なご紹介と旅館「ゆさや」のご紹介まで頂き、有難うございました。遊佐でございます。震災のお話しをということでございます。務まるかどうかの不安はありますが、頑張りますので、よろしくお願いします。一般的なお話だけでなく、経験を含めた内容を交えて、お話しをしたいと思います。 先程、仙台駅を下車、歩いてきました。すると、前をお年寄りの方が杖を付いてお孫さんらしき女の人と歩いていました。お爺さんが「ご親切にありがとうございます」と言っていた。てっきり、お孫さんと思っていたのですが、親切な女の人がいるなーと感心しました。考えてみますと、私どもが震災で多くの方々の親切なご支援を頂き様々な形で助けて貰いました。現実の災害復興においては、住宅問題など、なかなか思うように進まない面もあります。民主主義の世の中です。昔のような絶対君主の時代ならば、もっと早く災害復興が進んでいたかもしれません。とはいっても、いろいろな面で国内外のご協力を賜りながら着実に進めています。 少し前の話ですが、アメリカのメリーランド州にワシントン大学があります。アメリカの初代大統領ジョージ・ワシントンを記念して創設されたアメリカでは一番古い大学です。そこから教授が約30人の学生を引率して宮城県へ来られました。その時、宮城県の震災復興状況についてのご説明をさせて頂きました。そこでも申し上げましたが、ヘレンケラーは、戦前戦後を通じて、3回ほど来日され、福祉の道筋や法整備に尽力されて、福祉政策の礎が築かれました。その足跡に大きなものがあります。そのことにも感謝を申し上げ、震災発生以来、日本の復興に尽力したアメリカ軍の「トモダチ作戦」にも感謝の意を表しました。お配りした冊子の中に宮城県の地図を掲載しています。そこに三陸海岸の最南端に位置する牡鹿半島があります。震災時、陸路が閉ざされ、孤立してしまいました。救援物資を送ることができない。この状況の中で、アメリカ海軍の艦船からの「トモダチ作戦」が様々な形で支援をして下さいました。もしもこの支援がなかったら、考えるだけでもそら恐ろしい状況になっていたと思います。ほんとうに感謝をしております。 平成23年3月11日2時46分に地震が発生、この時、私は県の監査委員室にて、3時から知事と面談するために待機していました。監査委員室は、仙台市街の全貌が見え、机と応接セットがあるだけで何もないが、衝立が倒れ、テレビが外れ、大変な揺れを感じました。その内、外に出て下さいということで、17階から階段を降りて外に出ました。外では、青空議会が開かれていました。当時、議会は開催中でしたので、議長が開会宣言と議会の無期延会を宣言し、議員の異議なしとの声で議会の無期延期を決定していた。議員は直ちに血相を変えて眼の前を飛ばして行ったが、すぐに道路の混雑等で動けなくなった。近くに閉鎖予定のホテルがあり、その晩、私は家族との食事を予定していました。しかし、新幹線はストップ、交通手段はない。すると、地元の県会議員が帰りの車へ同乗を誘ってくれましたので、事務局の許可を得て、乗せて貰った。幹線道路はすべてダメ、山道の迂回路を選択、幸運にも震災時に県庁から6時半に自宅へ着いたのは私達のみであったようです。土日は電気も無く不自由な環境で過ごしましたが、月曜日に再び鳴子から仙台へ、仙台への高速バスが動いているという。7時半に飛び乗り、高速道路は使えないので、下道を通って、11時半に仙台に到着しました。 県庁前には2重3重の人が集まっていた。何事かと思ったら、旅行者が仙台から山形行のバスを待っていた。さらに、新潟方面を経由して関東方面へ帰って行った。県庁の1階は、彼らの宿泊場所として、毛布などが山のように積まれていた。鳴子からのバスで考えたこと、この対応は知事しかいない。知事に倒れられては困る。知事が精神的にも肉体的にも健康でこの状況を打開するために采配を振るってもらわなければならないと思った。そこで監査委員室から知事の秘書室に電話をしてみた。いま知事室に一人でいるという。いらっしゃって下さいとのこと、知事は栗原市の市長と電話で話をしていた。凄い会話であった。市長は「栗原市7万5千人の市民を見捨てるのか」という。油の問題で話していたと思う。病院や公共施設の油を確保するための要請のようだ。それを知事は「できない」と断る。交通は遮断しており、供給源との折衝もできない。知事は「私は2百35万人の県民に責任を持たなければならない」という。こんな会話に遭遇した。 知事は議会で私の後輩ですが、知事が電話を置いてから、私が申し上げたこと「あなたならこの難局を乗り切れるから、神に選ばれし者として、この試練が与えられたのだ」と言って激励した。知事は「はい」と答えた。松下政経塾出身の知事ですから、座右の銘は「天命に従い人事を尽くす」、一般には「人事を尽くして天命を待つ」です。この激励のことは後に知事が本にも書かれているのです。当時は夢中でしたが、いま考えてみますと、光栄なことだと思っています。 何しろ私が自宅から県庁へ出勤するのに往復8時間ですから、事務局は「必要な時にこちらから連絡しますから、自宅待機していて下さい」と言ってくれた。鳴子でも震災で仕事が山積みです。震災後1週間を経過した頃、近くの蕎麦屋の店主と話をしていたところに、3人の女性の方が共同浴場で入浴後に蕎麦屋で「カモ南蛮そば」を食べていた。私は浜の方からこられたのではないかと思って声をかけてみた。「どちらからですか」と聞くと「石巻からです」と答えてくれた。「この時期にどうしてここに来られたのですか」と尋ねたところ、石巻の避難所で働いていた看護師の方でした。過酷な環境で1週間程度過ごしたが、このままでは自分達か病気になってしまう。意を決し、ガソリン満タンの車を探して、鳴子の滝の湯(共同湯)へ入浴に来た。スッキリして「カモ南蛮そば」を頂き、世の中にこんなにも美味しい食べ物があったことを思い出したという。再び元気になったので石巻に戻り、頑張りますと言って帰って行った。 その時、感じたこと、鳴子温泉は古くから浜の方々に大変にお世話になっている。船主の方は懐に札束を入れて鳴子温泉に来られた。船員の方は鳴子温泉での湯治を楽しみにして来られた。長期間の航海ですから、1ケ月程度は滞在して帰った。鳴子温泉にとって大切なお客様が、いま大変な目に会っている。何か力にならなければと考えた。旅館の部屋は、お客様が無く、空いている。風呂の湯は豊富、全国でも評価の高い温泉、これを是非とも使って頂きたいと大崎市の市長に話した。市長は鳴子温泉組合加盟のすべてを避難所に指定した。そうすると、国からの支援も受けられる。市長も昔は県会議員の仲間、市長は、気仙沼・南三陸・石巻・東松島方面に、鳴子温泉のセールスに行った。避難所は最悪の状況です。いつ何時に感染症が蔓延しても不思議ではない。何も持たなくとも良いから鳴子温泉に来て下さいと言った。最初は誰も来なかった。ある奥さんの話によると、鳴子は憧れの場所、そこへはお父さんと手に手を携えて行くべき場所だという。そのお父さんが海の中にいるのに、私1人で鳴子温泉に行くことはできないという。そのお気持ちは理解できますが、そう言わずに是非とも鳴子へ来て下さいと言って、最終的には、約1500名の方をお迎えして、約4ケ月程度、お世話をさせて頂きました。 この震災の約3年前から、かなり高い確率で大地震が発生すると予測されていた。それに対して、備えが必要と、いろいろと準備をしていた。それが功を奏したこともあった。全く役に立たないということではないが、あの地震、あの津波ですから、想定を遥かに越えていた。役に立った点に、市町村トップフォーラムがある。震災に遭遇した時、市町村長はどのように対応し、どう行動しなければならないか、その中で、マスコミにはどう対応すべきか、それを勉強していた。その出席名簿みたいなものがあり、それを見ますと、対応を上手くやった市町村は、その長がすべて出席している。対応に問題があったところは、代理出席が多く、欠席したりしており、如実にその傾向が見られる。このことを海外にもPRし、海外からの支援の手を上手に活用している。災害発生時には、どれだけ早くその事業を立上げ、継続させることができるか、上手く出来た分野とそうでない分野があった。 宮城県の対応事例として、地元の土建業との間に、いち早く橋を架けたり道路を修復したりする事業がある。気仙沼や南三陸には、そのことで功を奏した場所もある。それからBCPがある。これは「事業継続計画」のこと、組織が内外の脅威にさらされる事態を識別し、緊急事態を生き抜くための事業計画であり、効果的防止策と組織の回復策を提供するためにハードウェアとソフトウェアを総合する計画でもある。県庁のインフラを素早く復旧できた。これも事前準備の賜物である。 警察官14名が殉職している。痛ましいことに、仙台南署に渡辺巡査部長がいた。4名の警察官がチームで、小さな車で沿岸の避難誘導を指揮していた。沿岸道路を多くの車が南下してくる。4人で西へ逃げろと誘導した。時間も迫ってきたので、声を掛けた。渡辺巡査部長は「お前たちは先に避難しろ、俺はもう少し避難誘導する」と言って1人だけ残った。車1台を残して3人は帰ったが、渡辺巡査部長にしてみれば、車が次から次へとやって来る。どこで切ったら良いのか判らない。1人でも多くを救わなければならないという使命感がある。その内に津波が来て殉職という悲劇に遭遇した。震災対応に対して、県警本部長は私の前で涙した。私はこのような時の限界がどこなのか、どこまでが警察官としての義務なのか、このような災害時に警察官が命を落とさないようにする手法はないのか、そのことを明確にする必要があると説いた。今では、例えば、石巻で災害が発生し、その誘導に当たる時には、このポイントでは、いざという時に自分はどのビルのどの階に逃げるということを示す地図がある。そして、限界まで職務を果たし、自分の身を守る仕組みがあり、そのシステムができた。 震災当時、約400名の人工透析患者がいた。1人も死なせなかった。これも先生方の努力の賜物です。有事の時の通信網を整備していた。実は残念なことにダウンしていた。それでも携帯など使って連絡を取り合って北海道まで搬送した。また、内陸の様々な病院に受け入れて貰った。これは凄いこと、私は先生方に感謝の意を表した。 私の旅館には約30名の方が約4ケ月間を宿泊して頂いた。その1家族1家族に大変な生死を分かつドラマがあった。折を見てお伺いした。ある方は運よく助かったので、流れて来た3人の方を拾い上げた。そして、4人目の方を僅かな所で救うことができずに流され、橋桁に激突するのを見た。非常に辛かったと言った。それから、足の悪い80歳ぐらいのお婆さんがいた。私の旅館に来た時には歩けないほどだったが、山に登ったと言う。どのようにして山に登れたのか解らない。無我夢中で、草木に摑まり、登ったようだという。いろいろなドラマが存在した。中には、豪邸に住んでいた方がおり、鳥海山の麓から約300万円の石を購入して、庭に並べた途端に震災に遭遇したと言って、ハッ・ハッ・ハッと高笑いをしていた。3人の女の子が泊まっていた。中学生が1人、小学校3年が1人、6歳の子が1人、5月の母の日のこと、震災から2ケ月強、何かしてあげたいと思って、ピンクのカーネーションを3本取り寄せ、女の子を呼んで、お母さんにありがとうと言って渡しなさいとアドバイスした。そしたら、お母さん、大変に喜んで、母の日なんかすっかり忘れていたという。すごく感謝された。特に、6歳の女の子は私の部屋に時々遊びに来た。パソコンをやり、良く絵を描いていた。その後、仙台の仮設住宅に移ったが、別れの際、お母さんは「お世話になり、ありがとうございました」と言って、「鳴子で娘の円形脱毛症も治りました」と喜んでいた。当然、予想されたが、子供たちの受けた精神的ショックは計り知れなかったようだ。私は沿岸の福祉事務所に行って、子供たちの精神的なケアに尽くすよう伝えた。 漁師の人は豪快な方が多い。大変な震災の中でも、船さえ持つことができれば、再び魚を採って来るという。海は太平洋銀行だとも言っていた。また家を建てるともいう。28歳で県会議員になった優秀な人がいる。30歳の時、チリに出掛け、水産庁の人も同行したが、銀鮭の自主規制の要請に行った。銀鮭を保護しなければ、日本国内だけでなく、チリにとっても良くない。相互に良くないからと言って、チリ政府を納得させた。当時、30歳の行動力はすごいと思った。日本に帰国時は、ニューヨークの9.11事件に遭遇、飛行機を3回乗り継ぎ、ポリネシア経由で、タヒチからエールフランスで日本に戻ってきた。彼は家族連れで、鳴子にやってきて、震災で何も無くなったので、やり易くなったと言っている人もいると話してくれた。このように豪快な人たちもいる。 女川では、津波の時、最大で約24mの高さになったと思いますが、岬で閉ざされ、そこへ平均で約10mの津波、高台へ逃れた。津波が来ても大丈夫なようにと高台に町立病院を造ったが、駐車場へ逃げた人は流され、車を置いてさらに高台へ逃れた人が助かった。4階建や5階建のビルは海側へ倒れた。津波の引き波、浮力で倒された。津波の被害は女川が最も酷かったようだ。宮城県の瓦礫が1800万トン、想像できますか。豪華客船にクイーンエリザベス号がある。全長約300m、幅約50m、約9万トン、これが200隻に相当する。この瓦礫が宮城県の海岸に打ち上げられた。最終的に、お配りした資料には、沿岸15市町の災害廃棄物の推計量が約1121万トンと記載されています。この誤差は、当初、海に流出した量を読めないので、被災された地域から算出した。やがて、瓦礫の総搬入量などから、詳細に推計した量が記載されました。仙台のゴミ焼却場は1日の処理能力が約300トン、その倍以上の焼却場を新設し、去る3月に瓦礫の処理をすべて完了したところです。この間、多くの物議が生まれましたが、北九州市にご協力を頂き、東京都からもご協力を頂き、多くの都市にも助けられました。
宮城県の復興計画について、少し説明させて頂きます。お配りした資料に宮城県震災復興計画の基本理念が記載されています。 1.災害に強く安心して暮らせるまちづくり 2.県民一人ひとりが復興の主体・総力を結集した復興 3.「復旧」にとどまらない抜本的な「再構築」 4.現代社会の課題を解決する先進的な地域づくり 5.壊滅的な被害からの復興モデルの構築 特に、「3.」に注目、これはイギリスの社会学者ハーバード・スペンサーの「変革せざるもの、滅びる」という論理、これを踏襲したのがチャールズ・ダーウィン「種の起源」で進化論を唱えた。その内容は「最後に生き延びるものは、決して強い者でも決して賢い者でもなく、最も良く変化に対応できた者である」ということだったと思う。そのことが宮城県の復興計画に取り入れられた。 もう一つは、兵庫県の貝原知事が阪神淡路大震災からの復興について「復旧復興に10年間頑張ってきた。震災前を取り戻したが、気が付くと、世の中から10年間も遅れていた」と言っていた。このことを踏まえて、平成23年の宮城県に戻るのでなく、平成33年の宮城県を目指して計画を立てることが大切だとした。そこで生まれたのが、水産特区や仙台空港の民営化などのアイデアであった。あるいは宮城県にはあり得ないと言われた大学医学部新設などがある。このように復旧に留まらない抜本的に新しいことへ挑戦する。これは大変なことです。国の省庁へ、その実現を申請すると、その実績が無く、間違いなく認可されない。国会議員の方々にも理解して頂きたいが、なかなか理解が得られない状況にあります。これを実行しようということです。 例えば、仙台空港の民営化、現在の利用客数は年間300万人ですが、北米定期航路の開設などで、これを2030年までに年間600万人にする予定です。北米定期航路は観光客のチャータ便だけでは実現できない。ビジネス客を増やさなければならない。そのためには東北各県にインターナショナルな企業を誘致する必要があります。それは宮城県だけでは無理な話です。東北6県にその芽を植え付けて育てなければなりません。宮城県だけが良ければということではなく、東北全体の発展が宮城県のためにもなるということです。水産特区も大変な議論があります。これは入口の問題、県会などは当初この説明などなかったという。問題は漁業を新興させられるのかということが大切です。現実には、漁協も納得して、水産特区に関する組合組織を立ち上げ、活動し始めました。これがなければ浜は寂れたままになっていました。知事のすごいところは、面倒くさくなっても、放り投げずに、最後までやり遂げ、話し合うという姿勢にあるようです。 最後に、宮城県の経済についてです。東日本大震災以前は、リーマンショックの影響で大きく落ち込んだが、回復基調にありました。しかし、リーマンショック前のレベルには達していなかった。そこへ大震災と大津波の影響で極端に冷え込みました。3ケ月後、震災特需というのでしょうか、被災地への観光面も含め、需要が上向いてきた。何しろ、多くの車を失っておりました。宮城県の車は約100万台でしょうか、その内の約20~30万台が流された。中古車の価格は跳ね上がりました。小さな車が約100万円、震災前は約50万円でした。家屋の建て替えもありました。建設関係を中心に経済も伸びてきました。但し、ここに来て、経済の伸びは鈍化傾向にあります。とはいえ、経済は概ね堅調に推移していると思われます。ただ観光面では、昨年の伸びが6.9%増ですが、その前年の落ち込みが大きいですから、それほどではないのです。やはり、福島の原発事故による放射能汚染が大きく影響しています。平成23~24年頃は観光でお金を落とすことで支援したいと来てくれましたが、一巡すると、他の地方の観光地へ出かける人が多いようです。富士山の世界遺産や北陸新幹線など、他の要因も多々ありますので、少し苦戦しています。宮城県以外の秋田や山形も大変です。いろいろな催し物も企画されていますが、やはり苦戦しています。秋田の駅前も、新幹線が開通した青森も、仙台駅前と比べて人は少ないようです。とは言え、宮城県を含め、観光は回復していない。 仙台空港には、津波の時、約800名の人がいました。旅行客も従業員も空港関係者もいましたが、そこで3泊ほどしました。その他に名取の近くの方も収容した。本来ならば空港に近くの住民を収容できません。何ともしかたがありません。約1年前にチリ津波が来た時、約200名の方が飛行場に来られた。それがリハーサルになったのかもしれません。そこへ、2011年3月11日の大地震、近くの住民が飛行場に押し掛けて命が助かったのです。その時の社長は約800名のリストを作成して管理したとのことです。少ししかない食糧を皆なに分け与え、その場でルールを決め、トイレの管理もしたと言っていました。その仙台空港は、3月11日の震災後、4月16日には開港したのです。私は4月5日に空港に行きましたが、飛行機を飛ばすのが何時になるのかと思いました。なんと仙台空港は1日40便もあるのですが、震災時に民間機が1機も無かったのです。まさに奇跡に近い状況でした。もしも乗客を乗せた飛行機が着陸していたら、さらに被害は大きかったと思います。幸運でした。仙台空港の社長は住友商事出身で元副知事、彼でなかったらば、3月11日震災当日のマネジメント、さらには4月13日の仙台空港の開港、このような離れ業ができなかったと思います。彼は慶應出身です。 当日、仙台港では食べ物の展示会を催していた。そこに多くの人がいた。近くのアクセル(仙台港貿易促進センター)のビルに逃げ込んだ。約700人を収容し、その命を救った。このビルは平成6年頃の建物、当時、日本の貿易黒字が大きく、今とは全くの逆、アメリカから輸出ばかりせずに国内消費を拡大して経済を維持せよとの要請があり、そのポースで造られたようなビルで、毎年約1億円程度の赤字を続け、厄介者になっていた。そのビルが約700人の命を救った。このビルの社長も慶應出身です。気仙沼では火事が発生した。大変な状況、そこでの震災対応も慶應出身が活躍した。各ポイントに慶應のネットワークが存在し、活躍していた。これからも慶應OBとして誇れるようにありたいと思っています。ご清聴ありがとうございました。 (質疑応答)
(記録・文責:高橋豊)
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