● 場 所 慶應義塾三田キャンパス南校舎6階「463教室」 ● 参加者 53名 講師:慶應義塾大学 大串 敦 法学部准教授 只今ご紹介を頂きました法学部の准教授をしています大串です。今年(2014年)の2月頃、ウクライナで政変が起こり、またたく間に、東ウクライナで戦争状態になりました。今は停戦状態ですが、かなり危うい状況です。これは何なのか、どうしてこうなったのか、どうすればよいのか、少し皆さんと考えてみたいと思います。 1.はじめに:問題の所在 この話、マスメディアによる報道のイメージと、実態が乖離しているのではないかと気になっている。これは日本のマスメディアだけでなく、ロシアやヨーロッパのマスメディアも、その見方が間違っているとも思われる。イメージと実態が乖離すると、特に外交上、危険になることがある。例えば、ベトナム戦争では、アメリカの政策担当者の現地イメージと実態が全く違っていて、その乖離を埋められないまま介入が止められなくなったとも考えられる。このことを念頭に置いて、ウクライナ問題を考えてみたい。もしも、クレムリンやブルッセルやワシントンの人達のウクライナのイメージが、実態と乖離していると、危険だと思う。まず、ウクライナの話を紹介しながら、ロシアの話に繋げたい。 2.ウクライナの政治情勢 2月政変の前提になるのはヤヌコーヴィチの支配体制だ。当時、ウクライナをドネツィク閥と地域党が支配していた。ウクライナ政治は、東西に分裂しているのではなく、多くの地方閥が存在する。例えば、ウクライナ東部ドネツィク州隣にドニプロペトロウシク州がある。かつてドネツィク州と激しい争いをした。1990年代のドネツィク閥の形成には、ドニプロペトロウシク閥との対立がある。話は遡るが、クチマ大統領(1994-2005)の時代、ドニプロペトロウシク出身のラザニンコが首相(1996-1997)をしていた。この時、ティモシェンコが社長をしている企業にガストレード権を付与しようとした。彼女もドニプロペトロウシク出身、ドネツィクには炭田があり、ドニプロペトロウシクから鉄鉱石を運び製鉄をしていた。大量のガスを消費する。ガストレード権をドニプロペトロウシクに持っていかれると、ドネツィクの企業はすべてドニプロペトロウシクに乗っ取られ、ドネツィクを脅かす事態になる。ドネツィクの人々は、このままでは潰されると思った。そこで、ドネツィクの政治経済のエリートが結集、ドンバス産業企業同盟を立上げ、ヤヌコーヴィチを知事(1997-2002)にして、地域党を結成した。 この地域は、ウクライナで最も産業化がすすんでいる。ヤヌコーヴィチは知事になると、地域党を率いて積極的なロビー活動を介して、首相(2002-2005)にまでなり、このドネツィク閥の力を中央政界に反映させる代表となった。2004年に大統領選挙が実施された時、オレンジ革命が起こる。クチマ大統領が2期で退任し、次期大統領にユーシチェンコ元首相とヤヌコーヴィチが候補者となった。クチマはヤヌコーヴィチ支持、ロシアも支援した。この時、ヤヌコーヴィチ勝利に対し、投票に大規模な不正疑惑があり、オレンジ革命が起き、再投票の結果、ユーシチェンコが大統領(2005-2010)になった。ここでヤヌコーヴィチは、政治生命が終わったかのように見えたが、見事な組織力で地域党の党首に復帰、2006年選挙で第一党になり、再度首相(2006-2007)に就任した。そして、ドネツィクから他の州にも地盤を築き、2010年の大統領選挙でヤヌコーヴィチが勝利した。ヤヌコーヴィチによるウクライナ政界の支配は、ドネツィク閥によるものであった。当初は他の諸派閥に遠慮して政権運営をしたが、次第に自分達へ利益誘導した。このことが他の地域の不平不満となり、今回の政変に結び付いた。 この過程で2013年にはEUとの連合協定調印の延期を発表する。これに対する抗議集会が開催された。このデモは強硬になり、政権側も強制排除を試みた。さらに、ロシアとガス価格を3割引で合意する。2013年1月に反デモ法を採択するが、抗議集会は止まない。政府は内閣退陣で事態収拾を図ったが、止まることを知らずに、2月に大規模な衝突が起きた。犠牲者が拡大し、最終的にヤヌコーヴィチが逃亡した。マイダンとは広場という意味、キエフの中央に独立広場がある。そこで起こった革命なので、マイダン革命とも呼ばれる。 この政変には幾つかの謎がある。ヤヌコーヴィチは何故にEUとの連合協定調印を延期したのか。これはロシアとの経済関係を優先したと言われている。次に、デモの強制排除、これは稚拙であった。強制排除が逆に火をつけた。さらに、デモを組織したのは誰か、ウクライナ全土から人は集まった。ロシアではアメリカやEUの資金援助でデモが組織されたと陰謀論的に言う。しかし、私見ではデモは自然発生的だったと思う。ついで、治安部隊とデモ側のどちらが先に発砲したか、これも謎、治安部隊側もかなりの死傷者がいる。デモ側がスナイパーを雇ったのではないかとも言われている。しかし、そのスナイパーが何処から来たのかも不明。また治安部隊側も特殊部隊を投入している。どちらが先か、謎のままである。最後に、合法性の問題がある。法的に見ればクーデタ、力による政権転覆だ。合法的であれば、議会での弾劾手続きを経て、大統領が解任され、新たな選挙となる。ヤヌコーヴィチ大統領は逃げただけ、辞任すると言っていない。かなり奇妙な政変だった。 その後、世界を震撼させたのは、ロシアによるクリミア併合だ。この問題は東大の松里公孝教授の論文(『現代思想』7月号、「クリミアの内政と政変(2009-14年)」)が詳しい。簡単に紹介する。本来、クリミアは地域党の支配が強い。そこへドネツィクから外様の政治エリートが来て支配する。外様エリートと土着エリートに潜在的な対立関係があった。さらに、クリミアはロシア系の住民が多い。ウクライナ系とクリミア・タタールと呼ばれる人もいる。現地の民族対立が潜在的にある。今までこうした対立が目立たないようにして来た。そこにヤヌコーヴィチが逃亡、地域党支配が崩れた。当初、クリミアのモギリョフ首相は、マイダン主導者と交渉可能と考えていた。それがマイダン政権に煽られ、ロシアのプロパガンダが加わり、クリミアに社会不安が生まれた。ロシアのプーチンが軍事行動を開始、クリミアの住民は歓呼してこれを迎えた。現地住民は現政権がマイダンの暴力から守ってくれないと考えていた。ロシア側は、ウクライナのNATO加盟を断固阻止し、クリミアの軍港を継続使用したいという思惑があった。こうして、ロシアはクリミア併合の手続きを進め、多数の顧問団を投入する。さらには年金増額を保障する。現在、ロシアは大量の資金を投入してクリミアを支える状況にある。 クリミアがロシアを迎え入れたのに対し、力による介入が激化したのが、東ウクライナでの戦争である。ドネツィクやルハンシクは地域党の地盤だった。ここで政変の衝撃があった。ドネツィク住民は、政変に批判的だったが、過激なデモは皆無だった。ヤヌコーヴィチ支配は、州の利害を守るもので、カリスマ的な指導者ではなかった。その地域党が瓦解した。代替となる政治勢力はない真空状態が生まれた。この中で活動を活発化させたのが、親ロシア派と呼ばれる人達だった。州の利害代表者が去った後、ドネツィクやルハンシクで、分権化要求が出るのは当然であった。しかし、分権化要求であって、分離要求ではない。住民の大多数は分離主義的でないので、親ロシア派は孤立してしまう。早いころからロシアから活動家が来て、分離運動をあおっていたが、運動は社会の中で孤立気味だった。この点がクリミアと大きく異なる。 このため、後に力による介入がエスカレートした。特殊部隊の投入、警察の襲撃、武器の拡散などが行われた。ウクライナ側も、これに気が付き、特殊部隊を投入したが、追い返された。最終的には、ウクライナは正規軍を投入し、ロシアも非公式に正規軍を投入し、ウクライナ軍は瓦解した。ここで9月5日の停戦合意になった。 ウクライナの今後の問題では、まず国制の問題がある。ドネツィクやルハンシクのいくつかの郡(ライオン)に特別な地位を与えるという法律が9月16日にウクライナで成立した。この法律は不思議で、その郡は何処を対象にしているのか、その地域が明確でない。また、連邦制への国民の支持は低い。次に憲法体制の問題がある。ウクライナ憲法には、2種類(1996年憲法と2004年憲法)がある。1996年憲法は首相を大統領が任命して議会の信任を得る。現在は2004年憲法、議会の多数派が首相を任命する。議会に多数派が必要であるが、ウクライナは、多くの地方閥が競合し、多党制政治である。議会の過半数を確保できない。多数派工作が不可欠だが、非常に複雑になる。もうすぐ選挙が実施されるが、その結果次第で、与党工作を巡り、離散集合の政治が続けば、ウクライナの政治は安定しない。いずれにせよ、これまでは、過半数を得る大統領与党が不在だった。ウクライナ政治は、東西に分裂しているのではない。ロシアは、東西分裂を想定して介入してしまったように思われる。次に、ロシアの政治が、どのように変化したのか、説明したい。 3.ロシア内政の展開 プーチン第一期(2000-2008)の政治体制は、地方ボスが強く、その上にバランサーとして君臨した形であった。例えば、2004年以降、地方知事を事実上の任命制にする政治を行った。しかし、プーチンは知事を更迭せずに、65%の知事を再任用した。特に大物の知事は再任用した。プーチンは地方知事の自由を認めるが、大統領選挙や議会選挙では統一ロシア党に選挙民の投票を動員し、忠誠を示すことを求めた。統一ロシア党にはほとんどの地方知事が参加した。プーチンは選挙民を動員した地方に対して、確実に知事を再任用し、互恵関係が成立していた。 議会は統一ロシアの支配下にあり、執行権力による議会統制がなされていた。統一ロシアが通した法案に大統領が拒否権発動することはなくなった。内閣や大統領が議会に提案した法案は9割がた成立した。とはいえ、地方知事のような有力地方政治家の影響力が強く、統一ロシア党にある程度の自律性があったと思われる。例えば、統一ロシアの黄金期の2004-2008年には、統一ロシア党が法案を作成し、その法案通過の度合いが増した。さらに、この時期にゼロ読会が制度化される。法案を提出する前に、法案関係者と統一ロシア党の代表者が集まり、法案の内容を話し合う。このように、党の意見が反映されるようになったのは、プーチン第一期からメドヴェージェフ初期にかけてであった。 メドヴェージェフ大統領(2008-2012)になると、統制が強化されるようになった。例えば、地方知事政策では、再任用が4割になった。さらに、大物知事が一掃された。シャイミーエフ・タタールスタン大統領、ラヒモフ・バシコルトスタン大統領、ルシコフ・モスクワ市長など、花を持たせて退任した人もいるが、ルシコフはクレムリンと対立して辞めさせられた。理由は定かでないが、メドヴェージェフが自分のチーム作りをしたかったという話もある。2008年のリーマンショックの影響が大きかったとも考えられる。予算編成についても強いコントロールが課せられた。クレムリンが中央統制を強化したことで、選挙では問題が生じたように思われる。有力地方知事を排除することにより、選挙への動員力が低下した。2011年の下院選挙では統一ロシアの得票率が50%を切った。議席は5割以上を確保したが、それまでは2/3以上の議席があった。世論調査を見ても、プーチン復帰後はかっての圧倒的な支持が無くなっていた。そこにきてウクライナの政変があった。 4.ロシア外交の展開 ロシアの対ウクライナ政策を整理する。クリミア問題について、1990年代のロシアは現状維持勢力、クリミア共和国がウクライナからの分離独立を要求する大統領が就任してもロシアは全く乗らずに、1997年の国境を承認し、クリミア帰属を明確にしていた。オレンジ革命ではヤヌコーヴィチを支援して失敗した。ガス問題では2005年にガス価格交渉が決裂し、2006年に供給停止、2009年にも供給停止している。ロシアがガスを外交手段に使用しているという説と経済的なビジネス問題だという説がある。どちらが正しいのか判断できない。個人的には、当初は純粋なビジネス問題であったが、支払が滞ったので、供給停止したら政治的効果があり、政治的に利用するようにしたと考えられる。ロシアのウクライナ政策は問題続きだった。 西側諸国との関係はというと、特に対アメリカ、冷戦後のロシアは被害者意識を持ち続けて来た。冷戦の終焉をどう解釈するか、1989年にパパ・ブッシュとゴルバチョフが、地中海のマルタ島で会談、冷戦終結を宣言した。当時、米ソの和解と考えられていたが、少なくとも、ロシア側はソ連が冷戦の敗者として扱われてきたと思っている。最初NATOは東方に拡大しないと約束していたが、バルト3国までNATO側に参加した。コソボォ独立承認問題では、国境線を変更しない国際ルールを西側が破ってしまう。非国家を承認する行為は西側のルール違反だとロシアは主張した。ブッシュ・ジュニア時代、イラク戦争や自由の拡大戦略によって、ロシアは煮え湯を飲まされてきた。ロシアは西側からの被害者意識とウクライナ政策の失敗続きの中で、ウクライナ政変が起きた。これでロシアの陰謀論的な解釈に火が付いた。政変は西側の陰謀、ウクライナ新政府はファシスト、東ウクライナでのドンバス戦争でウクライナ軍はおそろしく残虐など、あることないこと歪んだ報道がなされた。そうして反西欧的なナショナリズムが解放されて、ロシアの国民感情に火が付いた。その過程でプーチンはクリミア併合を行った。そこには、西側への報復という意味がある。プーチンの支持率は急上昇した。幾つかの世論調査によると、2014.5に70%(全ロシア世論調査センター)、2014.8に84%(レヴァダセンター)、プーチンの支持が不安定な時に一気に支持率が上昇した。 5.ロシア政治の変化 ロシアのプーチン体制は、地方ボスなどに依存するカシキスモ体制から、国民の支持を直接調達するポピュリスト体制になっている。ポピュリスト体制の難しさは、国民世論に迎合しなければならないということ、国民世論が激しく火を噴く時に、ここで手を引くのが合理的だということを説得することが難しくなる。つまり、対外的にも妥協できなくなる。ドネツィクでロシアは絶対に負けることができない。もしも、ロシアがドネツィクを失うと、プーチン支持が急落し、存在できなくなり、追放されるだろう。軍事力はウクライナよりもロシアが遥かに強い。 欧米の対応としては、アメリカの対応能力の低下、ドイツの妥協的姿勢がみられる。ロシアの経済制裁の効果に関しては、専門家の間でも判断が分かれていて、よくわからない。いずれにしても、ウクライナはドネツィクと、ルハンシクを実効支配におけないまま、欧米にも放置される可能性がある。 もしも今のロシアにおいて、プーチンが何らかの理由で失脚した場合、国内状況を考慮すると、心が暗くなる。プーチンよりもひどい人が大統領になるのではないかと言う感じがする。今のプーチンはかなりなことをしているが、仮に西側の経済制裁が機能すると、ロシア経済は停滞する。プーチンの支持率が低下して、失脚したとすると、プーチン後にもっとひどい政治家が出る可能性がある。とすると、対ロシア政策はかなり難しい局面にあると言える。 (質疑応答) 質問1.近辺ではこの問題をどのように見ているのか。ロシアの好きな食べ物は? 応答1.8月のリヴィウとキエフでの感触は、戦争状態を気にしており、関心もあるが、この国が戦争をしているのか、他人事のような空気が覆っていた。一部には、何故に欧州が介入しないのかと憤っている人もいたが。 好きな食べ物は、ロシアの前菜、酢漬の魚、ウクライナ料理のボルシチも美味しい。観光でモスクワとキエフどちらかを選ぶとすれば、物価からも風光明媚なキエフを推奨する。 質問2.1~3年後、ロシアはウクライナ問題をどう決着させるのか、その予測は、また近隣のイスラム国との関係はあるのか。 応答2.予測は難しい。私はクリミア併合はないと思っていた。欧米諸国は腰が引けている。戦争は正しい者が勝つのではなく、力の強い者が勝つ。あの地域、ウクライナは見殺しにされ、現政権の実効支配が及ばない状態は続くかもしれない。しかし、経済的にやっていけるかは疑問だ。 質問3.ロシアの国民性について、終戦直後、日本の樺太や北方領土を侵略した。背景には領土拡大や利権獲得があると思うが、ウクライナ問題も少しでもスキを見せると、進出侵略するように思う。共産党的な考え方から、トップが優秀なら、国がうまく治まるという背景があるようだ。民主的でないところもあるのだろうか。 応答3.日本では、北方領土問題は、火事場泥棒のように持っていかれたと考えている向きが強いので、ロシアは常に侵略的に見えるかもしれない。しかし、もっと広く見ると、ソ連やロシアの外交には、現状維持的なところがある。攻撃的かどうかというよりも既成事実を承認させる外交の在り方が強いように思われる。今回のウクライナ政変のロシア外交は例外的だと思う。1990年代から2000年代にかけて、ロシア外交は現状維持的であった。今回はロシアが変革勢力になっている。また、ロシアの国民性や政治文化から説明すると、ロシアは永久に変わらない国になる。この視点は個人的に好まない。ロシアはソ連解体後、かなり変わってきた。普通の国になったという側面はあったと思う。 質問4.そうすると、欧米はロシア制裁の方向に動いているが、日本の外交をうまくやれば、北方領土を含め、対ロシアに和平的な動きができるのではとも思うが。 応答4.これも非常に難しい。1990年代から2000年代前半にかけて、日本はロシアとの関係改善を進められると思っていた。今回、ロシア外交が現状変革型になったことが悩ましい。一般論壇では、ロシアが欧米から経済制裁を加えられ、中国とも問題を抱え、日本が交渉力を持つという議論も見かける。しかし、そこで日本がロシアに近付くことで、他の国や西欧諸国からどう見えるかを考えなければならない。ここで日本が太陽政策的な外交をすると、欧米から見て、日本は外交路線を修正したと見られかねない。つまり、現状変革型に近付くことで、我々は過去70数年前に、痛い思いをした。非常に難しい問題だ。 質問5.ニュースは本質的でなく、今回の話で本質が見えてきました。クリミアが独立して、さらにロシアと合併する。このことが法律的に可能ならば、例えば、日本の沖縄が、独立すると言うと、中国のような他国の主権が介入する。日本中の中国人がすべて沖縄に移住し、選挙権を持つ。年金の話のように、日本の65歳以上は人口の1/4、かなりの比率、この人達を優遇して沖縄が独立する。あるいは他国と併合する。これは法律的に可能なのか。 応答5.今回の件は、ウクライナの法律によれば、中央の承認なく、住民投票を組織することが違法行為だった。人道的危機が生じていたわけでもないのに、この住民投票を根拠に国際法上で承認はあり得ないと思う。日本でどこかの地域が独立すると宣言した場合、日本の法律は想定していないが、手続法もなく、その効力を政府は否定するだろう。 質問6.日本の北方領土で独立を宣言すると、日本の領土になることができるのか。 応答6.北方領土の住民が独立を宣言し、日本に併合すると言えば、ロシアのクリミア併合の言い分に従えば、それを阻止することができないだろう。ただし、そうなったら、クリミアの時の自身の言い分にロシアが従うとは思えないが。 (編集後記) ロシアは日本の隣国、いまだに日本とロシアの間では日露平和条約が結ばれていない。外交は単なる友好的なものだけではないようだ。かつてウクライナはロシアと同じソ連に属していた。報道によるウクライナ情勢と現実は異なるようだ。内部からの視点で正しい認識が必要、そこで何が起こっているのか、今回のウクライナ政変「ウクライナ危機とロシア内政外交」を平易に解説して頂いた。ロシア政治は変化しつつあるのかもしれない。今後、ウクライナはロシアと欧州との関係において、どのように決着するのか、注意深く見守りたい。大串准教授に感謝します。ありがとうございました。 (記録・文責:高橋豊)
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