● 場 所 三の丸ホテル(茨城県水戸市) 4階ステラ ● 参加者 40名 講師:公益財団法人 徳川ミュージアム 館長 德川(とくがわ)眞木(まき) 様(塾員) 全国通信三田会2016年春期幹事会での記念講演は、公益財団法人徳川ミュージアム 館長 德川眞木様にご講演を頂いた。德川眞木様は昭和58年3月に慶應義塾大学経済学部を卒業、平成3年3日に慶應義塾大学文学部にて学芸員資格取得、 平成19年4月に財団法人水府明徳会 彰考館 徳川博物館 副館長、平成20年6月に大能林業有限会社取締役、平成22年6月に財団法人水府明徳会 彰考館 徳川博物館 館長、平成23年4月 公益法人の移行認定に伴い公益財団法人 徳川ミュージアム 館長、 平成23年4月に公益社団法人 昭和経済会理事、平成24年6月に一般社団法人 行政刷新研究機構理事、現在に至る。 また、主な著作には、水戸黄門の残した「水戸学」『大徳川展』平成19年10月10日発行、水戸藩開藩四百年記念 茶室 「得月亭」公開記念 特別展 「水戸徳川家伝来茶道具展」『茶道雑誌第73巻2号』 平成21年2月1日発行、近世以来の家伝資料から—水戸徳川家の記憶『建築雑紙・第126集・第1624号』 平成23年11月20日発行、など。 このような話の前には、自己紹介が必要と思います。私は慶應義塾大学の経済学部を卒業しました。縁あって徳川家に嫁ぎました。主人も慶應義塾大学の商学部卒業です。今日は、主人の話を期待された方もおられると思いますが、私から話をさせて頂きます。 水戸の徳川家は、2代目が水戸黄門・光圀公です。光圀公のお父さんが初代で、頼房(よりふさ)公です。家康公の息子で末っ子11男です。その子供の光圀公が2代目、私の主人が15代目になります。東京海上でサラリーマンをしながら、内閣府所管の 「公益財団法人 徳川ミュージアム」を運営しています。財団の本部は東京にあります。 徳川ミュージアムは、国指定の18番目の名勝として、素晴らしい景色の庭園を持つ偕楽園と光圀公の隠居所である西山御殿 (西山荘)があります。最近、西山御殿は西山荘と呼ばなくなりました。何故か、茨城大学の鈴木暎一名誉教授が「西山荘」という文字を江戸時代の本で一度も見たことがないと指摘されました。いつ頃「西山荘」と呼ぶようになったのか、調査しましたところ、「西山荘」という言葉は江戸時代に出てこない。「西山」「御殿」「山荘」の3つは江戸時代に使われていました。常陸太田市教育委員会との合同調査で判明したのは、明治時代の教科書の副読本に「西山山荘」の「山山」を省略して「西山荘」にした思われる初めの記述が見つかりました。現地に行きますと駐車場に「西山山荘」と書かれた明治時代の石碑があります。学術的に「御殿」は身分のある方が住んでいる家を云います。光圀公が住んでいた頃の書物には「御殿」と書かれていました。光圀公が亡くなり、別の方が住むと「山荘」と呼ばれました。光圀公が住んでいた10年間に「大日本史」の編纂を行ったことから、史跡としての価値が認められて、光圀公の思い描いた世界観のすべてを表現している庭が名勝に指定されました。 では、光圀公の描いた世界観とは何かということです。これは一言では云えません。光圀公は漫遊記で知られているように、名君と言われています。よく質問されるのは、なんで黄門様は偉いのか、私はこの徳川家に嫁いで、自分の言葉で説明できるようになるのが一つの目標でした。慶應義塾大学の文学部で科目履修生の形で学芸員の資格を取得しました。多くの諸先輩の指導を頂きながら、学芸員からスタートして、現在は館長をしています。 最近、朱舜水という光圀公の学問の師といわれる方が話題になっています。水戸の人はご存知でしょうが、光圀公に初めてラーメンを教えて食べさせたと云われています。正確にいうと、朱舜水は明の学者です。光圀公が彰考館という学問所で学問をする時のお手紙は漢文を使っていました。このやり取りをしたお手紙が残っています。その研究をされた先生は、その贈答品の目録を見て、豚のモモ肉とか、ハスの粉などがあることを知り、黄門様は食卓でラーメンを食べられたということを発表しました。このことから、皆さんに分かり易く紹介されるようになりました。しかし、朱舜水が日本に渡来する前から、長崎ではラーメンが食文化として伝わっていました。但し、記録として残っているのは、光圀公が食べたというのが最初のようです。これだけで黄門様が偉いというのは寂しい。 そこで、光圀公の残された漢字文化を研究しようということになりました。研究は5年ほど前から始めました。大きな枠組みで日本の漢字文化の先生を探しました。しかし、慶應義塾大学の斯道文庫は協力していただけず、既に研究済みだというのです。 ある時、台湾大学から、朱舜水研究発表の世界大会を開催するので参加して下さいという。そこで占いを目的にした友人と2泊3日の台湾旅行をしました。この団体との接触は実りが多く、博物館の資料をスライドショーで紹介したところ、翌日にはアメリカの大学から研究させてほしいとの要請がありました。翌週には台湾大学の教授が来日し、研究させてほしいという。 要するに、原著史料の内容に、知られていない箇所があったようです。以後毎年、夏合宿を実施して、先生方は分業で写真撮影をしました。4年後に、その成果は中国語で上海古籍出版社から「日本徳川博物館蔵品録・全3巻」として出版されました。 朱舜水の遺物、光圀公の漢学、幕末の史料など、徳川家の史料の多様性を初めて図録にしました。日本の歴史学は日本の歴史を研究します。しかし、東アジアの広い視野から見れば、中国の文化が広がり、この資料は、東の端に残っている原著史料のオリジナル版ということになります。ここから北に約1時間の所に、国指定の史跡、水戸徳川家の墓所があります。ここは無宗教、お寺のお坊さんも神社の神主さんもいません。徳川斉正が自分で運営して、家霊を祭っています。初代の頼房公がお亡くなりになった時、光圀公は、子孫による先代の家霊の祭り方をご自分で決め、現在まで続いています。坊さんも神主さんも呼ばずに、主人が漢詩文を和文読みして、子孫が先祖を祭ります。 何故に光圀公がこのようにしたのか、自分が生きている時に造ったお墓に明白に書かれています。儒教も、仏教も、神道も、私は尊重して、その教理は理解している。だけれども、私自身はそのいずれにも寄らない。理解はするが、いずれの宗教も信奉しない。だから自らが家霊を定め、それに従う。私はこれを咀嚼する内に、なんとモダンなのだろうと思うようになりました。 いま、キリスト教とイスラム教の争いが起きています。確かに宗教は哲学的な真理を求める意味で素晴らしい。日本は個人の信教の自由が認められています。政治を行う光圀公にとって、それぞれの宗教の哲学は素晴らしいし尊重もし理解もする。しかし、自らは信仰しない。光圀公の時代、1600年に関ヶ原の戦いがあり、家康が天下を取り、徳川幕府ができました。 約30年程度が経過した頃、光圀公は藩政を担うようになります。日本の中学生の教科書では、この頃、3代将軍家光公の時代が終わり、幕藩体制が確立し、日光東照宮が造られ、大名達が徳川家に従って、いろいろな諸法度ができ、名実ともに徳川家が天下統一をした。ここで、何が必要か、武士が力ではなく、民を治めるルールを作り、世の中を治める武士階級の知的レベルを高め、教育の方法を見出すことにありました。それまでは、仏教による足利学校のような教育機関で坊さんが学問の中心を担っていました。この他、神社の神道の中で、文字を書ける人がいて、地域の教育を担っていました。また、商業での読み書き算盤など、ある程度は出来ました。 しかし、太平の時代に、社会を発展させ、教育あるいは文化を考える時、ひとつの宗教を中心に置くことを光圀公は嫌った。水戸のことを知っている人はご存知ですが、光圀公は寺社改革を行った。怪しき巣窟と呼ばれる幾つかのお寺や神社を廃止しました。一方、歴史のある所には資金や家臣を送り復興しています。栃木の那須国造碑を検証して庇護を与え、六地蔵尊の古い鎌倉時代の文書にお堂を建立したりしています。さらに、いずれお堂が荒れるだろうと予想して、復興のためのお金をお堂の下に埋めさせました。このように調査をし、保護すべき所には資金を提供しました。 光圀公は、政策の中に宗教を選ばなかったが、その基礎に据えたのが儒学でした。千年以上前に孔子が哲学的な柱を建て、中国で受け継がれた儒教は、光圀公の頃には陽明学です。実学です。朱子学です。17世紀の中国は、明から清へ、南の明から、ベトナムや台湾を経由して、長崎に知的階興が渡ってきました。食品では、インゲン豆が有名です。朝廷の庇護を受け、黄檗宗を起こし、隠元禅師が伝えたインゲン豆が食されるようになりました。光圀公の時代は、より多くの知識人が渡来しました。 誰を江戸の学問所に呼ぶか、選ばれたのは朱舜水でした。朱舜水は光圀公よりも年長、お父様の頼房公と3歳違いです。光圀公から見れば、ほぼ親と同じです。当時、現在東京大学農学部のある駒込に彰考館がありました。そこで、朱舜水は17年間、勉学を教えました。ここで教わった人物に助さんのモデル、佐々宗淳(介三郎)がいます。光圀公のお側役として、朱舜水との間を行き来していました。朱舜水の愛弟子です。朱舜水が亡くなった後も、朱舜水のことを本にしています。格さんは年下で、朱舜水の晩年のお弟子さんです。格さんが出世するのは、光圀公の時代が終わり、3代4代に渡る忠義にあり、光圀公の遺稿を本にし、水戸学の基礎作りをしています。 時代の流れの中で、朱舜水は光圀公と何をしたのでしょうか。お墓は常陸太田市にあり、亡くなった場所は現在の東京大学農学部、そこで暮らしていました。江戸の真ん中で、隣は富山と石川の前田家です。大名屋敷のある場所で学問所を開設したので、あちらこちらの儒学に関心を持つ人達が教わりに来ました。不忍池の反対側には羅山の林家が屋敷を構えていました。多くの人が学問をしに来ました。東京大学埋蔵文化財調査室の積算によると、約600人が彰考館に訪ねてきたようです。朱舜水は、中国から来日し、江戸で17年間に渡り漢学の基礎を助けた外国人講師です。先日(2016/5/15) 朱舜水の末裔が訪ねてこられました。朱氏25世です。なお、朱舜水は朱氏14世です。お配りした資料の中に、その時に参拝された様子などを掲載しています。参拝の形式は今でも中国式です。現在、朱氏一族は2万人、徳川家は御三家を含めて千人に満たないのです。中国はいかに人口の多い国か分かります。光圀公は隠居をされて、ご自分の息子に年貢を納めました。そこで、光圀公の家臣の子孫として、その体験をして頂こうということで、田植えの体験をして頂きました。光圀公の座った場所から西山御殿のお庭を眺め、東京大学農学部を表敬訪問しました。 何が言いたいかというと、東アジアの文化の中で、ベトナムは、1919年まで科挙の試験があり、儒教の国でした。台湾は中国から渡った人が人口の多くを占め、蒋介石に同行した人もいて、中国よりも古い中国を知っている人がいました。また、いまの中国は儒教を勉強し研究することを解禁しました。韓国の儒教もあり、東アジアの友好のために、明の朱舜水は、共通のキーワードかもしれないと云われています。数年前、当時民主党政権の時、田中眞紀子氏に誘われて、北京に同行しました。この時、社会科学院の副局長が云われました。もっと大事なキーワードがあります。それは徳川です。何故か、徳川は一度も中国大陸を攻めていません。徳川家康は、中国出兵時、大陸に渡らずに、九州に留まっていました。何よりも、豊臣秀吉の政権を倒したことで、中国では山岡壮八の徳川家康が読まれているようです。水戸には、徳川時代の遺跡や資料が残っています。それらを紹介することで、これからの若い人たちが、アジアの中の日本がどのようにして友好を持続できるのか、考える機会を与えることができればと思いながら、私は中国の遺物の研究をしています。彼らが何を選ぶか、日本人は壺や漆の評価に興味を持ちますが、外国人から見ると、自分達の国の歴史との関係や共通の文化であり、それが日本の何処にあるのか、それを見たいということの違いを知りました。 去年、私は海外の学会に4回参加しました。1回目はオランダのライデン大学、シーボルトのコレクションを持っていて、日本研究をしています。2回目は中国長春の東北師範大学、ここは戦争関連の記念館があります。ここで日本研究が盛んに行われています。そこで日本に残っている作品を紹介し、東アジアの文化交流を研究している人達と学会に参加しました。あとは台湾大学、17世紀に渡来した中国人がどのように日本文化に影響を与えたかを研究しています。このような経験の中で思うことは、、テレビの中の優しい黄門様や助さん格さんだけでなく、ドラマを見ていないオランダや中国など、世界の人が理解できる言葉を探して研究をしています。 今日は時間が余りないので1つひとつのことは言えませんが、今年の9月17~18日に、学会に参加された先生方を海外からお呼びして、財団がシンポジウムを開催し、専門的な討論をしたいと思っています。一般の方も無料で参加できます。財団のホームページに詳細を掲載します。ご興味のある方はぜひご参加下さい。 鉄砲や刀、工芸の成果発表もなされます。少し時間があるようなので、光圀公の偉大なところをもう少し補足します。日本史からみれば、関が原の戦いが終わり、幕藩体制が確立し、元禄時代の豊かな江戸文化が花開く頃に、光圀公は過ごしています。元禄時代は歌舞伎が盛んになり、素敵な絵画が狩野派などにより描かれ、金も豊富に工芸に使われました。平和な時代で文化レベルが高くなる頃に、光圀公は万葉集の研究を進めました。契沖というお坊さんを呼び、資金を与え、自由に研究させ、『万葉集代匠記』が出版されました。『万葉集代匠記』は、我が国の万葉集研究の起点になりました。光圀公は学問所のオーナーです。人事権を持ち、研究の方向性を決定しています。契沖だけに研究させていたら真実かどうかわからない。そこて、同時期に彰考館で直接雇った館員達に作らせたのが『釈万葉集』です。両方の研究を成果として、手元に取り寄せ、日本の国文学の研究を進めました。 鎌倉時代からのお寺や旧家に残っている文章類を集めました。現在、日本の国文学資料館のマイクロフィルムに記録され、国文学研究の基礎資料になっています。江戸時代に、散逸したものを徳川家の財力と権限で集め、資料を保全したのが光圀公のなさった偉いところです。現在いろいろな国文学研究ができる俎上は、あの時代に光圀公が作られたと言えます。ただ大日本史を作ったのではなく、光圀公が世の中を治めるために、自分が学びたいこと、必要なこと、知りたいこと、我が国の伝統的な神道の研究、国文学の研究を手掛け、発掘もしています。栃木県の「風土記の丘」は、光圀公が古代の豪族の墓を発掘してスケッチをし、そして埋め戻し、墓が荒らされないように木を植えて保全したところです。我が国の考古学の始まりとも云われています。 家康の孫に生まれ、人として、政治的な仕事をしつつ、文化的なことを成し遂げ、そして、人を育てました。彰考館に多くの学者を集め、藩のためだけではなく、様々な場を自由に出入りさせ、人材の育成に努めています。現在研究中ですが、彰考館は単に水戸藩の藩士が勉強するだけではなく、そこで教育された人がいろいろな藩に移っていきました。幕府に仕えて大きな仕事をした人もいます。ひとつの事例が薬学です。薬学の研究をして幕府に雇われた人もいます。水戸徳川家に雇われていたのですから、子会社の社員が本社の社員になるようなものなのです。推薦状と旧職場の承諾書を持って、すぐに転出ができます。そういう意味で水戸藩の人が幕府の役人になる事例が多く見られました。 家康公に立ち返ると、家康公の家来の中から、末っ子(頼房公)に付けて出された職員がいます。御鶴様衆と呼ばれ、鶴千代様(頼房公)の家来になりなさいということで、駿府城にいた家康の家来が水戸に来られたのです。有名な人が中山備前守です。今回の調査で分かったことに、家康公の鉄砲衆の桑屋家が水戸頼房公の家臣になり、鉄砲鍛冶屋として仕え、その家訓には、家康公が亡くなった時、大君の拝命を解して、以降中山備前に属すと書いてありました。家康公の命令で水戸家に務め、本社採用で出向したが、社長の代が替わったので、出向を取り消して、改めて子会社の専務の部下として働きなさいということです。桑屋家は現在の大工町の近く、鉄砲町という旧名があるようですが、そこに3軒ほどの屋敷があったようです。鉄砲を造り続け、桑屋銃と呼ばれるものが水戸と土浦の土屋家に残っているようです。 人事的交流も、水戸藩の中だけでなく、徳川一門の中で、江戸時代には、頻繁に行われていたようです。そこで水戸徳川の文化とせずに、徳川家の文化と題しました。鈴木暎一名誉教授の話によると、江戸時代には水戸「藩」と言わなかったというのです。研究者の間では常識なのですが、藩は明治時代に当時の政府が名付けたのです。それまでは、中国で地域毎に藩があり、漢学者が使っていました。当時は、水戸徳川家のご家中の方と呼ばれており、江戸の屋敷に詰めている人、水戸の屋敷に詰めている人、いろいろな人が居りましたが、大きく捉えて、徳川の政権を支えるご家中の方とされていました。そこで水戸学が世の中に大きな影響を与えたのです。 吉田松陰も水戸学を学びに来ました。地域の中で起きた物事というよりも、日本の中、世界の中で、どのような影響が光圀公の時代にあったかということを調べています。大きな流れの中で、水戸の文化は世界を見ていました。そこで学んだ人達が、水戸の未来を築き、何かを与えています。水戸の歴史は、地域の歴史でもありますが、日本の歴史と深く関わっています。 歴史の本には詳しく記載されていないのが、空間的把握です。光圀公は何々をしましたとあるが、水戸城でしたのか、常陸太田でしたのか、江戸の何処の屋敷でしたのか、という空間的把握をし直す必要があります。大名が養子に行くにも、福島から水戸に養子に来るのではなく、自分の荷物を抱え、江戸の中で屋敷を移るだけです。大名家の決定事項はほとんどが江戸で行われていました。これを現代で捉えると、地方の国会議員が国会に集まり、そこでいろいろなことを決め、それが反映されます。江戸時代に非常に似ています。中央の政治と地域の政治は、大名が管理しており、今よりも密接に行われていたようです。 空間的把握をし直しますと、水戸黄門様の話も、昔学校で習って試験を受けて、大学で学んだ歴史も、新しく見えてくるのではないかと思います。この4年間の活動から、多くの日本の研究者が参加されるようになりました。 博物館の研究は、基礎研究です。作品の計測から始めて、細かく観察し、そこから得られる情報をできるだけ多くキャッチしたいと思っています。その後、それを活用して評価して頂くのは、研究者や多様な活用法を考えていられる人のお仕事だと思います。博物館でしかできない研究、実物の文化財のアーカイブを使って、論文の引用などではなく、実際に残っている遺跡や作品を見て、学際的に、薬学や史学や工学の先生方達と共同で、科学的に分析をして頂くことです。私共の研究員の一人は、スプリング8(大型放射光施設)やジェイ5に私を連れて行きます。たたら製鉄の歴史研究をしている研究員です。博物館の作品を使いながら、確かな組成や技術的な内容を調べています。非破壊機構を使った組織分析の公募研究や中性子を使った研究に応募しており、私は事業責任者として、科学的な光を使った分析の説明や中性子の話など、様々なお話を聞いたりしています。 このように学際的な関わりから思わぬ果実が生まれます。今はデジタル化の時代、人間の目で見られなかった研究の内容を可視化します。今まで歴史資料は文献に偏っていましたが、科学を用いて可視化する研究に変化しています。このような研究者と楽しみながら、皆様にフィードバックする試みをしています。現在、博物館は災害復旧を行っていますが、まだ最新設備に追い付いていません。スマートフォンでダウンロードできる「ポケット学芸員」というアプリがあります。全国の博物館が表示されますが、関東では4ケ所が参加しており、徳川ミュージアムはその内の1つです。作品に番号が付与され、解説を見ることができます。博物館に行けば解説は付いていますが、資金の少ない博物館ですので、アプリを使って多言語化を進めています。最も進んでいる北海道博物館は、英語、中国語、韓国語、さらにロシア語にも対応しています。クラウド型のコンピュータシステムを使って、小さな博物館でも多言語化を可能にします。いま、その準備をしています。私たちの活動にご賛同を頂けるならば、ぜひご来館して頂き、応援を頂けるならば、慶應義塾だけでなく、税制優遇のご寄付も賜りたく思います。
(記録・文責:高橋豊)
|