ユニコン賞
宮木 巌(41文)
1.ユニコン賞とは ユニコン賞は、1967年(昭和42年)から毎年卒業式当日に表彰が行われてきた。2002年までの36年間にわたって、81人のユニコン賞とそれに付随する賞4人が選ばれて受賞した(別表、2002年までのユニコン賞受賞者一覧表を参照)。 この賞は、通信三田会活動の基本柱の1つとして、「後輩塾生への援助」の具体的な形を表わしたものである。昭和42年が通信教育開設20周年記念に当たったことから創設が検討されてきた。それまでも各地域ごとに塾員と塾生の交流活動は行われてきていたが、社中協力の実を挙げるために、かねてから意見が出されていたものであった。 通信教育で学ぶのは、とかく孤独に陥って脱落する者が多い。卒業率の低さがそのことを示していた。 福澤諭吉先生が大坂・緒方洪庵の適塾で勉学されたとき、グループで英書をはじめ各書物の輪読をして塾生が勉学に励んだ。この方法が原点となって、芝新銭座、三田の山と受け継がれてきた「集団学習」の手法であった。通学課程の英語学習でもしばしば実施されている。通信教育課程開設に当たっても、この「集団学習」方式が採用され、「クラス(慶友会)」という形で自主活動が推進されてきたのである。昭和22年発足のとき、「集団学習に関する規定」が発表されている。 その趣旨は、「通信教育は学生各自の独学によるものであるが、自ら1つの欠点が生まれてくる。それは、通学生のように多数の学生仲間の間にあって、勉学の刺激を受けて切磋琢磨する機会がないということである。その結果、ややもすれば勉学の気分が薄らいだり、天狗になったりする恐れがある。また、少なくとも勉学の進展がはっきりしないという欠点がある。通学生クラスと同じように幾人かの同学の士が集まって勉学することが望ましいのである。これが集団学習法(グループ・システム)を推奨する所以である。」、「本塾の通信教育でかような集団をクラスと呼ぶのは、学校のクラスの気持ちを持っていただきたいと考えたからである」とクラス(慶友会)のあり方・必要性が明確に打ち出されたのである。 通信三田会では、このクラスの持つ意味が大きいことを実感してきた経験を生かす方法として、クラスの「縁の下の力持ちとなって活動した塾生が、晴れて卒業の栄冠を手にするときにお祝いする」ことによって、励ましの標しとしたのである。昭和41年秋の常任幹事会で決定され、翌年の卒業生から卒業式当日に表彰されることとなった。 2.表彰の基準 ユニコン賞の表彰基準は、
3.ユニコンと慶應義塾との関係 ユニコンは、ギリシャ神話に出てくる一角獣のことである。このユニコンがどうして慶應義塾と関係ができたのであろうか? ペンの塾章とともに、もう一つの塾のシンボルとして古くから馴染んできた。塾内だけでなく、昭和30年代には三田商店街に「ユニコン」名を持つ喫茶店があったことも覚えている。昭和37年秋の神宮球場では、塾のマスコット「ミキーマウス」がディズニーの標章権に触れることがわかって、代打として奇異な怪獣ユニコンが登場した。このとき慶應応援団の間では大変人気者となって、12シーズンぶりの優勝を勝ち取ったエピソードもある。 ユニコン賞の創設に当たって、賞の名前が話題になったとき2〜3の名称が提案された。この中の1つに「ユニコン」の名があった。もっとも身近に感じていた名前であったので、1位となった。しかし、塾との関係は誰も知らなかった。名称を使うことに問題がないのだろうか、そのことも話題になり、調査することになった。 大正年代、現在の西校舎の位置に大講堂があった。それが大正12年9月1日の関東大震災で被災した。その改修時、正面バルコニーに雌雄1対のユニコンが魔よけの装飾として取りつけられた。建築のデザイナーがつけたものらしい。パリのノートルダム寺院にもあると言うから当時の建築家の間では知られていたことだと思う。不鮮明な写真ではあるが、当時の大講堂屋上から東に向かってビジネス・スクール(現在の新図書館)を撮ったものを見つけたので掲載した。ユニコンは現在中等部の玄関前に保存されている。 塾との関係が判明して、名称使用についても問題がないことがわかった。表彰時に贈呈される記念の楯の原型になったのは雄の方で、初代通信教育事務長を長く務められた加藤元彦(故人)さんの紹介で先輩の塾員の会社が作成したもの。 |
大正末期、関東大震災で被災したに大講堂を 修復した際、バルコニーに取りつけられたユニコン像。 東に向かってビジネス・スクール (現在の新図書館)を見て撮影されたもの。 |
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