1. 評議員とは
慶應義塾には他の大学とは比較にならない最高議決機関として評議員制度がある。法律的には私立学校法第41条以下に、評議員会を置き、その権限、選任等についての規定があるが、実質的にははっきりしない。
第42条では、予算、借入金、重要な資産の処分、収益を目的とする事業に関する重要事項、その他重要事項で寄付行為をもって定めるもの等についてはあらかじめ評議員会の意見を聞かなければならないとされているが、やはり「お目付け役」的存在としての意義が大きい。
評議員の選出方法は慶應義塾評議員選挙規則を設け、選挙権、候補者の推薦、投票について定めている。塾員のすべては評議員選挙権を持っているが、塾職員である期間は選挙権が停止される。
候補者の推薦については、
1)
理事会が評議委員会の意見を聞いたうえで、百名以上百五十名以内の範囲で卒業生を推薦する。
2)
塾員が五十名以上の連署をもって塾員1名を推薦することができる。ただし、1人の塾員が2名以上の候補者を同時に推薦することはできない。
2.評議員と通信三田会の関系
1)
評議員選挙への関心
通信三田会報で評議員の記事が最初に掲載されたのは、1970年(昭和45年)9月の第9号である。上記の評議員の仕組みを対談形式で説明している。翌年の10月に第23期の改選があることを知っていたので、当時の役員幹事はすでに関心を持っていたと言えよう。当時は学園紛争が終結したばかりで、夏期スクーリングが中止されるという大きな問題を抱えた通信教育は学内改革の対象の重要事項であったから関心が高まったのかも知れない。
1971年(昭和46年)4月の第10号では第23期の改選された新評議員名が紹介されている。また、1972年(昭和47年)4月の第12号で、死亡による欠員評議員の補欠選挙の記事が掲載されている。次いで、同年10月の第13号では選挙規則の一部改正を掲載している。理事会の推薦枠が「九十名以上百名以下」と縮小され、塾員の推薦枠は「百名以上百五十名以下」となった。投票については連記「百五十名から五名」に縮小された、と伝えている。
2)
組織としての投票
1972年(昭和47年)4月に「財団法人私立大学通信教育協会」が通信教育実施17校によって設立された。教科書の改訂に悩んでいた各校が共通科目の教科書改訂費用を国家助成に頼ることで結束したのである。その事務局が塾通信教育棟内に設置され、塾出身の毛利松平衆議院議員の力を借りることになった。こうした縁がきっかけとなって、1974年(昭和49年)10月の第24期評議員選挙で初めて組織として同氏を応援することとなった。
このほか他の三田会から個別に働きかけがあったことも伝えられるが組織がらみで行動した実績はない。
3.悲願の自前候補者を立てる
1) 候補者擁立の経過
1982年(昭和57年)7月の会報第24号では、会長の松田奎吾(31法)君が初めて通信三田会推薦の候補者に選ばれた。同君は、昭和43年から副会長を務め、昭和50年若林輝彦前会長の後を引き継いで会長に就任している。弁護士としても長年活躍されていた。
その数年前から会員の間では、通信塾員の中から評議員を送り出そうという声は聞かれた。3年前の昭和54年に通信塾員が5000名を突破していたので、もう候補者を出すべきだとの悲願が醸成されはじめた。人材を探そう、という動きが表面化してきていた。
第1回卒業生34名が卒業してから30年、その間1969年(昭和44年)の夏期スクーリング中、過激派学生の授業妨害行為が発生して「慶應義塾と通信教育を守る会」を結成して、事態の沈静化と啓蒙活動を行って、ようやく消滅に導いた。以来この種の紛争は根絶された。
この活動の経験を通して、通信三田会の組織活動が大きな力を得たことに会員の意識が高いものになったようだ。そのようなときに評議員選挙が巡ってきた。いよいよ通信三田会が評議員を送り出す悲願が実現される時が来たとの観があった。
2) 松田奎吾君を擁立
1982年(昭和57年)5月の幹事会で、待望の通信三田会独自の候補者に松田奎吾(31法)君現会長を推薦し、擁立することを正式に決定した。そして、評議員選挙対策委員会代表に松田信俊君(38経)が就任し、選挙活動が始まった。
松田選対委代表は、同君の故郷福岡県八幡市の市歌から「天の時を得、地の利を占めつ、人の心の和さえ加わり〜」を引用し、われらの代表を評議員に送り出そう、と「松田奎吾君を励ます会」で発声した。
@「天の時」とは5331名の塾員数に加え、放送大学実現を控え新しい通信教育の姿が問われる時代に入ったこと。
A「地の利」とは北は北海道、南は沖縄まで全国に広がる通信三田会の大票田を活かす。
Bそして、これらの「人の和」が加われば実現は夢ではない。
4. 選挙活動
選挙対策委員会は会報特別号を発行するに先立ち、6月24日に日比谷公園松本楼で有志が参集した。当時の通信教育部長三浦和男教授も列席され、「5000人を超す大組織でありながら塾とのパイプ役がいなかったことは、むしろ遅きに失したくらいである。通信塾員の力を結集し、通信塾員代表の評議員を実現して欲しい」と支援を要請されている。
選対委事務局長の故小早川隆昭(40文)君は、55名余のスタッフと直ちに活動を開始した。東京銀座の松田奎吾法律事務所を事務所とし、連日有志がDMの宛名書きや、大量のコピーをして、全国に向けて「立候補支援と選挙資金の募金」を呼びかけた。各地域通信三田会代表者にも活動要請をした。地方との連絡活動と募金の集計などにスタッフは連夜対策に忙殺された。仕事を終え、帰宅途中に立ち寄る事務所には活気が溢れていた。
候補者の松田奎吾君は、法廷活動の合間を見て全国各地の三田会の会合に飛び、立候補の趣旨説明と協力の要請に奔走された。
1982年(昭和57年)8月31日の会報25号では松田奎吾君の立候補挨拶にはじまり、8月7日には京都で関西大会が開催され、ここでも、当選に向けての松田奎吾会長と松田信俊選挙対策委員会代表から決意表明と、参加者全員の応援が確認された。
第25号では、「選挙展望あなたの一票が是非欲しい!」の一文で、60名の卒業生評議員の枠に68名が立候補して、30名以内に食い込むことが必須条件と予想された。多くの地域では通信教育以外の既存三田会の伝統的地盤があることを考慮すると厳しい競合状況であった。決して楽観は許されないことが訴えられている。
選挙対策委員会が地方勧誘をした地域は、札幌、宮城、福島、茨城、静岡、愛知、京都、大阪、兵庫、長野、富山、石川、広島、愛媛、福岡の各三田会が挙げられ、三田会未結成地域ではこの機会に是非と結成の呼びかけも行われた。投票についての具体的方法も綿密に掲載されている。
25号では、特集として澤田允茂、黒川俊雄元通信教育部長、加藤元彦事務長が執筆され、推薦のことばのほか、松田奎吾候補、西岡秀雄名誉教授、三好京三、松田信俊君の座談会も掲載されている。卒業生の『恩返し』として、5000名を超える全国展開の組織として、今後塾に最大限の協力をすることが、評議員の使命として意義がある、と結論している。さらに女性評議員が皆無であることにも疑問を投げかけられている。このことも後年、通信三田会の手で実現することになる。
このたびの選挙活動は、単に選挙対策委員会だけが努力したのではなく、地域では文書依頼に応じ、名簿の整備、地域発行の会報に同封してのカンパ、そして、すでに地域を票田としている既存の評議員との重複を避けて、地域外塾員への働きかけや、遠い仲間への電話作戦を取るなど地道な努力が行われ、地域の連帯感も一大進歩をみた嬉しい副作用も報告されている。
5.
当選
1972年(昭和57年)10月の投票では予想をはるかに上回る、1,626票上位の当選を果たした。これは取引業者に圧力をかけたり、強制的に集票したのではなく、期待をかけた通信三田会の塾員一人ひとりの希望のこもった票の集積であったことが何より貴重な結果である。「なせばなる」の言葉の通り努力の結果であり、これを契機に地域の活性化が一段と加速されることになった。
当選を祝い、「松田奎吾君を祝い励ます会」も 11月26日、東京新宿の京王プラザ・ホテルに多くの支援会員や来賓を迎え、今後の活躍に期待をかけた勝利の祝賀会は最高に盛り上がった。
6. 評議員活動の努力
評議員会は塾の最高議決機関であり、その内容は会報26,27,28,29号に克明に説明されている。松田奎吾君が会員の期待に背かぬ真摯な態度で努められたことがよくわかる。同君の評議員会での活躍は、5000人を上回る上昇する三田会としての軌跡を印象づけ、新たな認識を植えつけた。大いなる松田君の努力を評価したい。
7. 評議員再選へ
4年の任期中、開催された評議員会にすべて出席され、その報告を会報に掲載された。真摯な松田奎吾君は、1986年(昭和61年)5月22日開催の春季定例幹事会で、次期の第27期評議員選挙に再び推薦されることが決まった。会報31号では、松田信俊君が前回同様選挙対策委員長に就任した。このときは前期の実績から理事会推薦となり、やや有利なスタートとなった。
理事会推薦であっても無投票ではなく、他の候補者同様に塾員の投票を必要とする点では変わりない。選挙対策委員会では初心に返り、いち早く推薦の言葉と選挙資金の協力を打ち出し、全国的協力を呼びかけた。
そして、再選を果たした。
この際も地域通信三田会の絶大な協力の賜物で多額の資金カンパを得て大成功の選挙であった。再選は松田奎吾君のさらなる活躍に期待する塾員の意思表示でもあった。1987年(昭和62年)2月には再選祝賀会が意気高く開催された。
8. 松田奎吾君の急逝
再選された1987年(昭和62年)、通信三田会の元副会長、縁の下の力持ちと誰もが敬愛した小早川隆昭君が病気で不帰の客となった。悲しみの消えるまもない5月12日、こんどは松田奎吾君が弁護活動で横浜地方裁判所の法廷で、壮烈とも言える心不全による死を迎えてしまった。
享年僅か63歳の若さであった。
そして、会の重鎮を2人も失った悲しみのうちに、8月29日東京港区の佛教会館で「故松田奎吾会長、小早川隆昭副会長を偲ぶ会」が開かれ、多くの塾員に送られて、その幕を閉じた。
9. その後の通信三田会の対応
会長の逝去にともない、元会長だった松田信俊君が残余の期間を会長代行として急遽推挙され、会の後事を託された。当初は次期評議員を
通信三田会から送ろうという機運があったが、人材難や諸般の事情で会としての評議員擁立は断念された。
この後、1988年(平成元年)9月30日、仙台で開催された第14回地域通信三田会代表者会議でも白熱の議論を呼んだ。また、常任幹事会でも種々議論されたが見送られた。しかし、この議論が潜在してのちに続く評議員選挙の活動につながっていく芽となった。
10.女性評議員の実現
1998年(平成11年)10月の第30期評議員選挙において、神奈川通信三田会から擁立された田沼千鶴子(3文)君が、全国各地の塾員の支援を受けて、女性評議員の実現を果たした。この選挙における経緯は次期周年記念等で記録が作成される場合に譲ることにする。
同君は、当選後会報第59号で次のように挨拶を述べている。
@
慶應義塾大学に通信教育制度による大学院を設置することに努力する。
A
生涯学習時代の視点に立って、通信教育の内容の充実と発展をはかる。
B
故松田奎吾君が報告されていた「評議員だより」を継承していきたい。