草創期の塾員活動

 

有居 孝(34経)、宮木 巌(41文)

 

1.はじめに

1952年(昭和27年)3月、大学通信教育はじまって以来の卒業生34名が誕生した。当時は日本が連合国の支配から独立したばかりで、経済情勢もまだ戦後復興の名残を残していた。慶應義塾大学通信教育の卒業式も三田の第一校舎前の庭に、紅白の幔幕を張り巡らして青空の下で行われた。

新卒業生は同期が年度三田会を結成した後、通信教育部が行う懇親会に出席して、「第1期春期会」を結成した。この年の9月に第2期の卒業生43名が誕生している。昭和27年11月には春秋の合同同窓会が行われたが、翌 28年からは期ではなく、年度ごとに3月の卒業式に1本化された。

初期の通信塾員たちは、名称に「通信三田会」の呼称こそ使ったわけではなかったが、実質的に「通信三田会」が発足したのはこの昭和27年春期会からである。後に、昭和41年通信三田会報が創刊されたとき、加藤元彦初代通信教育事務長が寄稿された文章では次のように述べられている。

「(前略)。その数は決して多いとはいえなかったが、通信教育によって大学を出たということは塾にとっても我が国にとっても最初のことであって、実に画期的な事実といってよいと思う。卒業式は通学課程の卒業生と一緒に行われた。そして通信教育の諸君が喜びの卒業証書を手にし、ささやかな謝恩会の後、卒業生の間から誰言うとなく、われわれは今日から塾員となり三田会員になったのであるから、社中の一員として、一般塾員と共に手をとって慶應義塾の真価を高めることに努力する覚悟をきめた。(後略)」と、塾員となった自覚を全員が持って巣立って行った、と記されている。

 

2. 草創期の塾員調査

今回、創立50周年に当たって、昭和27年の塾員から昭和38年全国組織としての「通信三田会」が結成されるまでの11年間にわたって、塾員活動がどんな状態で歩んできたのか、アンケートを通じて調査を実施した。通信塾員名簿の該当年次対象者の中から、当時の事情に詳しい人びとを人選していただいた。

しかし83名のうち4分の1がすでに他界され、また音信不通であった。そこで、年次や学部を勘案して調査対象者をさらに広げた。

調査対象

1952年〜1962年の塾員        68名

地域通信三田会              41地区

回収数

  回答塾員                 30名

  地域通信三田会              4地区

以上の調査結果と、10年前に編纂された日はめぐる丘の上 通信三田会0年のあゆみ」会報縮刷版2000刊および塾通信教育部発行の補助教材慶應通信のバックナンバーを総合して、今回の通信三田会年表を作成した。それに基づいて以下に初期の塾員活動を記述してみる。

 

3. 初期の塾員活動

通信三田会の活動は、大きく分けて3つに分けられる。

1)塾員相互の連携活動

2)塾行事への参加、運営に協力する

3)後輩塾生を支援する

今回の調査から概観できることは、「社中一致」の精神を具体的に実現する方法として、上の3つの事柄を新塾員各自が意識して行動していたと言ってもよさそうだ。「通信教育」という新しい教育形態で卒業しただけに、現在の私たちより塾員としての誇りは高かったと見られる。

詳細は年表を参照していただきたいが、同窓会がいろいろな形で行われているし、特に科目試験があるときは率先して通信教育部に協力を申し出ている。また、後輩の学習支援として講演会や講師派遣を積極的に行うケースが見られる。

 

4. 相互の連携活動

少ない回答数の中でも、この調査項目は多くの塾員が回答している。各地方に戻ってから三田会に率先して参加している。定期的に行われる懇親会や記念行事などに出席していることがわかる。この際同僚の通信塾員が同席したか、単独の出席であったかも質問している。単独の出席が多いのだが、複数の人が同席していて、具体的にそれらの氏名を挙げて回答している。そうした交流は現在までも年賀状を欠かさず続けていると、いう例も記されている。

出席した行事は、定期総会、福澤諭吉誕生記念会、塾の創立△△年といった記念行事、地域ごとに行われる□□合同会の行事名が挙がっている。

このころの通信塾員の数は地方になると、まだ非常に少ないために、通信塾員だけで集まるという例はごく稀で、そのほとんどが一般の三田会に溶け込んで活動していたことが知られる。

 

5. 塾行事への参加、運営に協力する

塾の記念行事や福澤先生誕生会など三田の行事に限らず、地方においても記念行事は行われる。そうした行事へ出席することで塾に接し、塾維持会に加入することによってさまざまな情報を受けていた。また、記念行事に併せて行われる募金等に応じることで、社中協力に参加している。

特筆されることは、初期のころは通信教育部が行う地方の科目試験で、裏方として協力する例が見られる。通信塾員の特殊性というか、塾生に対する思いやりには特別なものがある。少しでも後輩塾生がよい環境で試験を受けられるようにと、お手伝いを申し出ていた塾員が多い。職員の手薄を補助したものであったのであろう。次項の後輩塾生を支援するに含まれることになるが、科目試験を軸に講演会などを誘致して学習活動のバックアップを企画している例がある。

 

6. 後輩塾生を支援する

塾員の多くが塾生時代はクラス(慶友会)に属して学習活動をしていた事情があり、卒業後もクラスに顔を見せてアドバイスや研究会などをしているケースが見られる。塾員の数が少ない時代では気軽に慶友会に出席して先輩の立場から学習上の体験やスクーリングに出席する具体的注意事項を授けることも大切な役割を果たしたようである。宿泊施設の問題は特に難しかったと言われる。昭和20年代の夏期スクーリングにはまだ米の配給券を持参したという話もあったというから、初めてのスクーリングに出席するにはほとんどの塾生が苦労を味わったとことであろう。そんなときの先輩のバックアップは大きな力であったと言えよう。

卒業時にはスクーリング宿泊施設建設という名目で、寄付を募り基金を集めた。今回の調査では、そのことを知る手掛かりは得られなかったが、卒業年次によって言い伝えられていることも知った。後年全国組織が結成されたとき、通信教育部から年次ごとに預けられた基金があった事実が残されている。多くの先輩たちがはるか遠い将来のことを考えていた証拠である。

通信塾員の活動で特徴的なのは、通学課程塾員に比べて塾生への支援を大きな課題と考えていることである。のちに通信三田会の活動の柱となったのは、この辺の事情が塾員共通の意識だったと言えよう。独学の弊害を仲間や先輩と一体になって克服する知恵をクラス活動から体得していったことになる。

 

7. 塾員組織化の動き

後輩の慶友会活動が活発化する中で、塾員同士の連携を強めるために地域ごとの合同会が開かれるものの、現在の地域通信三田会や全国的な組織を作ろうとする動きに発展するまでには至っていない。そうした動きが出てくるまでには卒業生の数が2000人を超える昭和40年代に入らなければ芽生えてこない1つの障壁のようなものがあったのかも知れない。

また、首都圏の地域活動においても年度ごとの連携が中心となっていて塾員全体を結ぼうとする兆しもなかったようである。毎年日吉で行われる連合三田会に参加する塾員が増えて、一堂に会する機会が見え始めた頃、すなわち、昭和38年の全国的組織化が実現する時まで待たなくてはならなかった。


 

草創期の塾員活動(個別活動アンケートの回答から)

 

氏名(卒年)

参加会名

いつ頃

行事名

同僚塾員

太田 義夫(27文)

旭川三田会

昭28年頃

科目試験の支援と交流会

 

根本 安恵(27文)

福島慶友会

昭27年以降

勉強会、懇親会

23名

西垣 金弥(28経)

関西慶應会

昭30年代

福沢諭吉誕生会、総会、

創立記念会、

関西合同会

岩井莞治君ほか

有吉壮一郎(29経)

岡山三田会

昭27年以降

毎年の講演会や懇親会に出席

年賀状交換

大門   潔(29経)

国策三田会

昭30年から

懇親会

 

岡野 正義(30経)

千葉三田会

昭30年から

毎年の懇親会

野沢均君ほか

阿武 正童(30法)

関西連合三田会

昭30年から

懇親会

 

坂本   学(31経)

東京会(慶友会)

昭27年以降

月次勉強会

鈴木仁君ほか

鈴木 康弘(32文)

静岡慶友会

昭30年頃

 

水口為和君

浜田 松一(32経)

土佐三田会

四国銀行三田会

昭32年以降

懇親会

 

前田 雅尚(32経)

三田経友会

昭29〜32年

経済書の輪読

高橋邦夫、鈴木 仁君ほか

桜井 健治(32経)

名古屋三田会

昭27年以降

連絡会、懇親会

古河実君

早川 和枝(32文)

婦人三田会

昭37〜39年

懇親会、チャリティバザール

 

半田   理(37経)

岩手三田会

昭37年以降

諸行事

地域通信塾員

 

草創期の塾員活動記録(1) 昭和27年〜昭和37年

 

年 月 日

場  所

活 動 行 事

1948年(昭23年)/5/1

東京・南部

最初の慶友会結成、塾南三田クラス発会

1948(昭23年)/8

新潟県・佐渡(夏期スクーリングで)

佐渡三田クラス発会、

1948(昭23年)/8

糸魚川市(夏期スクーリングで)

糸魚川三田クラス発会

1948(昭23年)/8

水戸市(夏期スクーリングで)

茨城学生会結成60名

1949(昭24年)/11

塾・三田

文学研究会、三田経友会、法学部研究会発足

1952(昭27年)/3

塾・三田

第1回卒業生(春期会)34名誕生

1952(昭27年)/3/30

静岡慶友会

卒業生送迎会を開く

1952(昭27年)/3

豊橋市

豊橋三田会から通信生に奨学金贈呈

1952(昭27年)/5

津山市

科目試験と金田教授の講演会

1952(昭27年)/5/13

高松市

科目試験後卒業生体験談を語る

1952(昭27年)/11

塾・三田

春秋卒業生合同懇親会開催

1953(昭28年)/3

広島市

広島慶應会主催、卒業生が応援

1953(昭28年)/10/14

札幌市

札幌行事で木田(28経)君学習体験談発表

1953(昭28年)/10/18

名古屋

行事で筒井(28文)、三矢(28文)君2名が出席

1953(昭28年)/10/20

長野市

懇親会に米沢君(27経)出席


 

草創期の塾員活動記録(2) 昭和27年〜昭和37年

 

年 月 日

場  所

活 動 行 事

1954(昭29年)/1/9

東京三田・サワ洋食店

有志が同窓会(25名が出席)

1954(昭29年)/4

 

初の司法試験合格者

1955(昭30年)/3/13

福岡市

福岡慶友会に福岡三田会の広瀬塾員が出席

1955(昭30年)/3/31

広島市

広島慶友会で体験談を語る、塾生から記念品贈呈

1955(昭30年)/3/24

呉市

呉慶友会で講演会と座談会開催

1955(昭30年)4/13

盛岡市

岩手慶友会が卒業祝賀会

1955(昭30年)/5

塾・通信教育部

「慶應通信」に全国クラス紹介一覧掲載

1955(昭30年)/8

塾・三田(夏期スクーリングで)

夏期スクーリング連合慶友会結成準備会、14クラス展示会

1956(昭31年)/8

塾・三田(夏期スクーリングで)

クラスの集団「連合慶友会」結成

1957(昭32年)/4

秋田市

秋田慶友会科目試験誘致

1958(昭33年)/3

塾・三田

卒業生1000名超す

1958(昭33年)/11/10

塾・三田

通信教育三田会開催(同窓会56名出席)

1959(昭34年)/2/14〜15

大阪市

阪神地区同窓会開催、参加者30名

林烈先生、加藤事務長、奥井課長出席

1959(昭34年)/5/2

名古屋市

愛知、岐阜、三重塾員が合同で会議開催

1959(昭34年)/5/20

鎌倉市

神奈川の塾員会合

1959(昭34年)/6/13

秋田市

有志が秋田三田会と合同会

1959(昭34年)/8

東京(夏期スクーリングで)

司法試験受験者が「慶法会」発足

1960(昭35年)/1/17

函館市

17科目試験に塾員が協力

1960(昭35年)/1/17

名古屋市

科目試験に筒井栄太郎(28文)君が協力

1960(昭35年)/1/17

広島市

科目試験時に脇田久二(31文)君の協力で学習指導が行われる

1960(昭35年)/4/1

仙台市公会堂

講演会開催

1960(昭35年)/4/1

広島市平和記念館

中国地方連合塾員三田会、講演会

1960(昭35年)/5/7

新潟市

学習相談会に協力

1960(昭35年)/5/7

神戸市

学習相談会に協力

1960(昭35年)/6/26

札幌、福岡市

学習相談会に協力

1961(昭36年)/6/18

札幌市

太田義夫(32文)芳賀柳二君が学習指導に協力

1961(昭36年)/6/18

福岡市

福岡三田会の広橋塾員が学習指導に協力

1961(昭36年)/6/20

広島、米子市

斎藤純一郎(33経)君が学習指導に協力

1962(昭37年)/4/5

函館市

石井正則(33経)君ほか3名が学習指導に協力

1962(昭37年)/4/7

京都市

鴨山弘君後輩を指導

1962(昭37年)/4/8

盛岡市

半田理君ほか3名が科目試験と学習指導に協力

1962(昭37年)/4/8

名古屋市

桜井健治(32経)、石井純美(37法)君ほか3名が学習指導に協力

1962(昭37年)/6

大阪市

尾来太一君学習指導に協力

1963(昭38年)/3

塾・日吉

卒業生2000名突破

 

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